朗読gig

ああもう明日だ…ということで宣伝ですが、清澄白河のSNACで、あす朗読を中心にしたパフォーマンスを吉田アミ、ucnvとおこないます。

http://snac.in/?p=961

当日パンフ用の文章を書きましたので、えーと転載します。

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 文字として書きとめられた言葉は、それが声であった時とはまた異なる領域に繁殖してゆき、それは例えば日記、書簡、記録報告文、憲法、そしてそれらをごちゃまぜに固めたものとしての小説となる。それらは大体において、直接目の前にいない相手にむかって語りかけられ、その不在が生み出す不安と傲慢が、さまざまに屈折した叙述の工夫を生み出してゆくことになるだろう。誰もいない場所に、言葉とともにひろがっている時間と空間の自由。小説を読む楽しみの多くはこの自由さにあるが、さて、わたしたちはその文字をここで、人前で、舞台に上げて、声に出して読んでみることにする。目の前にわたしたちの話を聴く人がいるという状況で、不在を前提に作られた言葉を再生してゆく試み。現実の時間のなかに小説を押し込めるのは、まるで檻で猫を飼うようなもので、人と人とのあいだにあるべき言葉はもっと別のものがふさわしいかもしれない。では黙って読むしかない小説とはいったい何にふさわしいのか。

 ところで、吉田アミとわたしはどちらも即興演奏をおこなう音楽家である。20世紀においてノン・イディオマティック・インプロヴァイズド・ミュージックと呼ばれていた音楽が、まあ、わたしたちの音楽の大きな導きと糧となった。その音楽の特徴のひとつは、自身の演奏の基盤に、あらかじめ文字として書きとめられ思考されるようなシステムを置かない、ということだったと思う。わたしたちの演奏には――無文字社会の人間に理論と倫理があるように――ある確かなシステムがあるが、それは読み書きに則った思考法では分節されえないのである。即興演奏はこのような立場によって、しばらくのあいだ、音の背後に譜面を備えた十九世紀的な音楽に対する前衛と見なされていた。そういった時代ももう去った。いまでは即興は、読み書きを覚えるのがただ面倒なだけの人が…いや、この話はどうでもいい。まあ、ともかく、わたしたちの身体には、文字を介さない(これは必ずしも、言葉を介さない、ということではない)演奏の方法が蓄積されてしまっている。そういった身体がいったいどのように「文字を読む」のか。テキストはなんでも良いと思ったので、ここ十年に流行したものと、二〇世紀の有名な作品から引きました。演奏時間は六〇分強を予定しています。映像に関しては見てのお楽しみということで。自分たちにとってはかなり実験度高めのライブですが、気軽に楽しんでもらえれば幸いです。 

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一応完全新作です。

で、昼の回も、もしかして希望者多ければアフタートーク軽めですがやるかもしれません。お気軽に。歩いていける距離に木場の東京都現代美術館もあるよ。

23の夜にはラジオ。27にはジャズドミュと来週はウィズ菊地さん仕事が続きますなー。

とりあえず明日よろしくです。