イントキシケイト2006.11

■二つの支持体が。

二十一世紀初頭の十年も後半に入って、今年も前世紀を支えた芸術家の多くが世を去った。ジョルジュ・リゲティは六月に死んだ。この現代音楽界きってのイ ンディヴィジュアリストは、青年期にナチズムによるホロコーストに巻き込まれ(彼の父と兄弟はユダヤ民族殲滅政策によって殺害された)、終戦によってその 悪夢から逃れたと思ったら、今度はスターリニズムによる統制と抑圧が待っていた、という、実に特殊で激烈な、しかしまさしく二〇世紀的としか言いようのな い状況を、その身一つで生き延びてきた。
転機となったウィーンへの亡命もやはり政治絡みで、1956年のハンガリー革命が鎮圧された後の反動的粛清を避けることが第一の目的であっただろう。彼 はこの革命を支持していた。鉄のカーテンを乗り越え、欧州の音楽的首都に現れたこの時、彼はすでに三十三歳だった。1956年といえば、欧州の前衛音楽家 たちが最大の盛り上がりを見せていた時期であり、50年代初頭から試みられてきたあらたな技術と技法による実験が、さまざまな音楽会で続々と結果を出し始 めていた時期であったが、リゲティはもっとも遅れてそこに入り込んだ者の特権として、その遅れを距離に変え、当時のクラシック音楽のメインストリーム ―――「形式の確立とその発展」に重きを置くシステマティックな思考法―――に囚われることなく、実に個性的で、しかし、一本の線の上には並べることの出 来ない作品をコツコツと作り続けたのだった。
いま僕の手元にあるのは、『CLEAR OR CLOUDY』と題された4CDのBOXセットで、おそらく追悼盤として編まれたものだろう。 『Complete Recordings On Deutsche Grammophon』ということで、ドイツ・グラモフォンに録音された(その多くは80年代から90年代にかけての録音だ)彼の作品が、ほぼ作曲年代順 に収録されている。「晴れても、曇っても」……「僕は自分の作品を作り続ける」と言うことだろうか、通して聴くと改めて、リゲティの作風の幅広さとそのク オリティの高さに舌を巻かせられる。もちろん、たった四枚のCDで彼の仕事のすべてをカヴァーすることは不可能であり、初期の電子音楽も、自動演奏機械に よる作品も、もちろんオペラ『ル・グラン・マカブル』もここにはない。そうそう、『ハンガリアン・ロック』も入ってないし、あと、ドビュッシーのそれ以降 もっともポピュラーな現代ピアノ曲集であろう『ピアノ練習曲集』からも二曲しか収録されていない(コンプリート?)。まあ、そもそもリゲティの業績全体を 一つのBOXだけで見渡すことなんて無理な相談だろうから、これは仕方のないことだと思う。かなり淡白な印象ではあるけれど、普通に演奏会のレパートリー に加えられそうな作品におけるリゲティの上手さを聴きなおすには十分な内容であるだろう。八〇-九〇年代の代表的な作品である二つのコンチェルトにはやっ ぱり興奮するし、オルガンのためのハード・コアな(B-BOYだと「超ハーコー」)『ヴォルミナ』をはじめて聴けたのもよかった。
リゲティはモダン・クラシックの作曲家の中でも特に、伝統的な対位法を駆使することに衒いのない作曲家であった。実際、彼の最も有名な作品である『アト モスフェール』のマイクロ・ポリフォニーは膨大かつ超精密な音群によって出来ているが、その一つ一つの音は殆ど古典的とも言える作曲技法に基づいて書かれ てあるので、演奏家にとっては出音に納得出来る(演奏自体は勿論容易なことではないが)、非常に見栄えの良いものになっていると言う。ということは、考え てみると当然なことではあるが、リゲティは演奏される前からこの作品のサウンドを頭の中ではっきりと鳴らすことが出来ていた、ということであって、オルガ ンの機能を使い倒した『ヴォルミナ』にも同じことを感じるのだけど、こういった複雑な音群を、実際の響きを抜きにして創造し、紙に書き、展開し、他人に伝 達して演奏させることが出来ている世界というのは、ものすごい変わった伝統の下に育まれた極めて特殊なものであるなあ、と思う。
音をその演奏から一旦切り離し、記号化し、紙に書いて視覚化して把握する、というやり方。つまり、音楽的イメージの支持体として紙とエクリチュールを選 択し、作者と紙とステージとの間の「距離」の中で想像力を作り出し、作品を生み出してゆくこと。スコア自体から音は聴こえない―――この欠落が特殊な想像 力=創造力をもたらし、僕たちは作品が出来た後にきっと鳴らされるだろう「音」を想像しながら音楽を「書く」ことで、個人的なモチーフを十分に展開するた めに必要となる、遅延された時間を手に入れる。こういった引き延ばされた時間を音楽制作の前提にし、その遅れを中心にして音楽を取り巻く状況を整備するこ とで、ヨーロッパの音楽は独特の発展を遂げてきた。
リゲティの作品はこうした十九世紀的なヨーロッパの伝統にがっちりと則ったものであり、彼のフルクサス的なパートはそれを逆手にとって楽しんだものであ ると思うが、これからの世界で、こういったシステムによる音楽を本当に心の底から自分のものと考え、これこそが自分の芸術だとして全面的に受け入れること が出来る人間が、どれだけ活躍することが出来るのだろうか。音楽の支持体として、「紙」という媒介物を本気で選択すること。そして、書くこととそれが鳴ら されることとのあいだにある時間的距離の中から、自分だけの創造力を立ち上げることが出来るようになること。録音の向こう側から響いてくるリゲティの作品 に僕は、こういったシステムが十分に機能していた最後の時代の音を聴き取っているように思う。
「紙切れに一つの音符を書いている時、人はまったく現実のことを考えていません。そしてまた、書いている時と聴かれる時との間のかくも長い距離がありま す……一年とかもっとながいこともある……。現実性の感覚を失ってしまうのです。ミュージック・コンクレートで素晴らしいのは、音を置いたまさにその時 に、それがスピーカーから出てくるのが聞こえることです。音楽創作の歴史の中で、私たち以前にこのようなことは決してありませんでした。写真の発明よりも すごいことです。なぜなら、写真ではカメラのボタンを押す時と現像された結果を見る時との間に、まだ少しの時間があるからです。」
こう語っているのはリュック・フェラーリである。リゲティと同じように、一貫して現代音楽のアウトサイダーであり続けたフェラーリは、「録音」というメ ディアを音楽の支持体として選び、そこに開ける可能性を「紙」による作品との可能性とのあいだに宙吊りにし続けた、二〇世紀はじめてのクラシック・コン ポーザーであった。彼はマイクによって音を集め、それを録音メディアの上に配置し、それを聴きながら作品を構成してゆく。つまり、現在多くのポピュラー・ ミュージシャンが行っている素材の録音→編集という作業のあり方をいち早く身に着けた非常にめずらしい「作曲家」な訳であるが、自分が使う音が「いまこ こ」にある、という発見は、イデアとその再表象とのあいだに永遠の差異がある(そして、その差異こそが創造の源泉である)クラシック音楽にとっては、なか なか認めがたいものであったのではないかと思う。
ぼくたちは現在、録音メディアの上に音を呼び集め、そこから好きな音を手にとって選ぶような形で、音楽を制作することが出来るようになっている。紙とい う支持体の上では厳しく制限されなければならなかった音の素材も拡張の一途を辿り、もう殆どどんなものでも、まるで手に触れたものをそのまま全部取食べる ことが出来る、すべてがチョコやクッキーで出来ているお菓子の国に住んでいるみたいなものだが、そういったある種の地獄の中で作られたものとして、カヒ ミ・カリィの新作『NUNKI』は鈍い輝きを放っている。
どんなものでも音楽として使え、また、「いまここ」がそのまま音楽が立ち上がる神聖な場所になるとするならば、ぼくたちはもう何も選ぶこともできない し、選ぶ必要もない。だがこれは嘘である。これは紙を支持体とした音楽環境が前提としている理念の単なるネガであって、録音メディアに寄せ集められた音か らはじめる僕たちは、ここにも確かな倫理と構造があることを知っている。
『NUNKI』で慎ましく、しかし、圧倒的な存在感でもって鳴らされているひとつひとつのサウンドの強さは、おそらく、紙を支持体とした音楽では決して 響くことの出来ない性質のものである。このアルバムに現れるギターや笙、石や水やエレクトロニクスのアンサンブルは、録音メディアという音楽の支持体がは じめて発見し、自分の名の下でもって世界に提出する、あらたな世界観のあらわれだ。カヒミ・カリィはその歌声によって、水音とギターが重なり合うこの場所 をはっきりと指し示し、プロデューサーたちは見事な腕前でその導きに応えている。カヒミ・カリィの声の繊細さと確さは、何よりも自分が自分として世界の中 でアンサンブルするために、こういった響きの場所をずっと求めていたのだろうと思う。カヒミ・カリィは一アーティストとして、自分の個性をまったく独特の 形で構造化することに成功したということで、このアルバムの成果をはっきりと誇りにしてもいいと思う。
ジョルジュ・リゲティの『ロンターノ』とカヒミ・カリィの『呼続』。来歴が異なり、伸びてゆく方向が異なり、その響きのあり方もまったく異なってる音た ちが、スピーカーの上ではみな、ほんのすこしだけ似た表情を見せて交じり合う。死者の平等にも似たその場所で、これからも僕は音楽を聴き、作ってゆくつも りだ。