・マイク・オールドフィールド『チューブラー・ベルズ』
『ここで言えることは音をオブジェとして、しかもおもちゃのように自由自在にのびのびと使い、いじり、動かし、重ねるという感覚こそがこの『チューブラー・ベルズ』の実は本当のすごさと新しさなのではないだろうか。』(「一つの始まりと創造の円環について」)
若干20歳のマイク・オールドフィールドを抜擢し、彼にスタジオを自由に使わせて、「28種類の楽器を自らプレイ、約2300回のダビングを重ね」さ せ、「レコーディングは約9ヶ月間にも及び、最終的なマスタリング、カッティングも4回やり直して」(ライナーより抜粋)アルバムを完成させたヴァージ ン・レコード社長、リチャード・ブランソンの慧眼には恐れ入る。ヴァージン・レコード第一回発売作品の目玉であった『チューブラー・ベルズ』は、リチャー ド社長の狙い通り全世界で大ヒットを記録、映画「エクソシスト」のテーマとしても使用され、マイク・オールドフィールドは一躍音楽業界の寵児となった。ミ ニマル・ミュージックを援用した15拍子のテーマはいま聴いてもエモーショナルだが、この作品がこれほど受け入れられた原因は、間も指摘しているように、 音をスタジオの中で自由に重ねてゆく作業の可能性を実にポップに、軽やかに見せてくれたことによるだろう。ダビング作業のクオリティ・アップによって、バ ンドで人前に立たなくても、そして譜面に書いて人を指揮しなくても、試験管の中で薬液を混ぜるようにして音楽を作ることが出来る—ベッドルーム・テク ノまでつながるこの感覚に対して、間章はその可能性を認めながらも、それを全面肯定することに対しては微妙な逡巡を見せているように思う。「録音」と「即 興」が持つフィールドの違いに対する微妙だが確かな反応が、『チューブラー・ベルズ』を巡る間の言説には感じられる。
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・エリック・ドルフィ『カンヴァセイションズ』
『ドルフィが関わろうとした<未だないジャズの在り方>(原文強調点)、それはジャズをとらえて来たジャズの固定性、形式、すなわちコード、規則的リズ ム、パターン等々といったものから離れて何ら拘束のない自由へ関わるといったものではなかった。ドルフィは明らかに自らをしばり、いましめ、規制し続け た。その意味では彼はフリー・ジャズの季節から切れているし、前衛主義者では決してなかった。或いは、ドルフィは自由というまたはフリー・ジャズというも のが、まさにフリーという形式であり、また途方もない安易さも危険と困難に同時に裏打ちされるものでしかなく、フリー・ジャズによっては自由はそして解放 は得られるはずもないと考えていたのかもしれない。』(「エリック・ドルフィと『カンヴァセイションズ』をめぐる10の断章」)
エリック・ドルフィは、自身に先行するアーティストの中でも間が特別に重要視していた存在だった。いわゆる「ジャズ」の文脈で彼が特権視し、その音楽に 関してテマティックに取り組もうとしていたミュージシャンを最少数で挙げるならば、ドルフィ、アイラー、シカゴ前衛派となるだろうが、この三組の中で前二 者は、レイシー/グレイヴス/ベイリーという「ポスト・フリー」・ミュージシャンを彼が実体験した後も、何度も翻ってその可能性を確認しようと試みたし ミュージシャンであった。『カンヴァセイションズ』は、リーダー・アルバムとしてはわずか4枚しか残されていないドルフィのスタジオ録音作品の中でも、 『FarCry』と『Out to Lunch!』をつなぐ時期のミッシング・ピースを集めたもの。未だに全体像が把握されていないドルフィの音楽であるが、特にリチャード・デイヴィスとの デュオにおける彼のバスクラの謎には、まだ全く分析の手が入っていない。
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・ファウスト 『Ⅳ 廃墟と青空』
『確かに「ファウスト」は数多くのロック・グループのなかでももっとも異例の部屋を持っている。そして彼等について語る時もっとも重要な事は彼等の音楽 が、歌や曲の表現といったものとは違う所で形成されているということなのだ。彼等は音によって演奏によって、音に違う夢を見させ、違う光景を与えようとし ている。「ファウスト」という言葉が選ばれたのも魔術師・錬金術師として実在したファウストにあやかって彼等が音の錬金術師たろうとしていることをうかが わせる。』(「ファウストの悪夢と反世界」)
初端の「Krautrock」という曲名がジャーマン・プログレの代名詞に使われるほど強烈な世界を構築することに成功したファウストの4stアルバ ム。ヴァージンからのリリース。リズム隊がきちんとビートをキープしている曲が多く、ファウストのパブリック・イメージであるエレクトロニクス/コラー ジュの使用による混沌感は薄いが、時折現れる編集による時間の歪みやLRを思いっきり広く使った音像はヘッドフォンで聴くとかなりインパクトがある。間章 は既存のフォームから離れた/離れようとする音楽を聴き取る繊細な耳を持っており、鬼才ぞろいの70年代ドイツ・ロック勢のイントロデューサーとして非常 に優れた役割を果たした。ほとんど国内情報が出回っていない時代に、初期アモン・デュール、カン、ファウスト(間は中でも「ファウスト・テープス」を高く 評価している)などが後世へと与える影響力を正しく認識し、予言していることに驚かされる。
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・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド 『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』
『ヴェルヴェットのすべてのレコードのなかで僕はこの「Sister Ray」を収めた『White Light / White Heat』がベストのアルバムだと思う。ヘロインのなかに沈みながらこの「Sister Ray」を聴いたとき、そこに僕は限りなくやさしい亡びと限りなく開かれた地獄を見たのだった。それにこの「Sister Ray」ほどに創造というものの輝きに満ち、あらゆる可能性に満ちた天国と地獄が共存する音楽空間を僕は知らない。それは何よりも僕の言うアナーキーに満 ちていた。』(「アナーキズム遊星軍、ルー・リードのアナーキー」)
アンディ・ウォーホールから離れ、全編をメンバー四人で制作した68年のセカンド・アルバム。冒頭の『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』など、A面 に当たる楽曲にはまだ曲想、コーラスなどにR&Bの影が残っているが、B面に入ると完全にそれまでのポピュラー世界のアレンジを振り切り、特にラ フなワン・コード、ワン・ビートの連打で17分半を押し通す「Sister Ray」では、ブルース/ファンクの豊穣とは全く正反対の、細く、硬く、貧しく、しかし、黒人音楽の屑としての「ロック」としてはこれほど見事なものはな い世界を作り出している。ルー・リードのヴォーカルも素晴らしい。増幅・歪曲・延長によるサイケデリアをどのように認識=価値判断するのか、ということに おいては、間の感覚は(その表現はともかく)かなり鋭く、また正確であったように思われる。
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・阿部薫『なしくずしの死』
『二十歳の阿部薫が我々の前に現れた時、彼の破壊的なアルト・サックスのプレイをおおっていたものこそがこのニヒリスムの深い影だったと私は言うことが出 来る。二十歳の阿部はまるでランボーが「光輝く忍耐で正装して街へ出てゆくのだ」というがごとくに狂暴な愛とパッションと、観念とそして破壊的なスピード とテクニックで正装するようにして登場した。一九六九年というまさになしくずしへ向かってゆくような状況の中で、彼はコルトレーンやアーチー・シェップを 殺すようにしてまさに凶々しい、アナーキストとして登場したのだった。』(<なしくずしの死>への覚書と断片」)
自分と対等に切り結べるはじめての同時代人であり、誰よりも近しい資質を感じていただろう阿部薫について書く間の文章は、彼の残した仕事の中でももっと もイメージ生産力の強いものである。ここに書かれている事柄のどこまでが、実際の阿部の演奏から導き出されたものであるかを読者に考えさせないほど、間章 は阿部薫のイメージを文章によって緻密に構築することに成功している。いま久しぶりに『なしくずしの死』を聴きなおしてみたところだが、ここでの阿部の演 奏の質の高さは、テクニック的にも(出したい音を一発で切り出すコントロールの精密さ)、曲想のオリジナリティ(サックスにおけるプリペアドされたトーン についての感覚を展開するやりかた)においても、そしてもちろんその音色の素晴らしさにおいても、驚異的なものだ。僕はいま、このサウンドを間=阿部的な 言説の磁場からなんとか解放する(というのが大げさならば、ちょっとしたズレのある場所へと導いてゆく)必要を強く感じる。それほど素晴らしい演奏であ り、あらためてこの音楽を自分たちのものにしたいと僕は熱望するのだが、その作業はまだおそらく非常に困難であるだろう。
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