●EWEの新潮流について
大谷能生
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今年の六月、イースト・ワークス・エンタテインメントは、ミュージシャン・芳垣安洋がプロデュースする『GLAMOROUS Records』を新たに 立ち上げた。このレーベルは、これまで本当にさまざまなバンドやセッションでドラムを叩き続けて来た芳垣安洋が、『「リズム」「サウンド」「スタイル」そ して「国境」をも越えて音楽家達が集う』場所を切り開き、そこから『カテゴライズしきれない色彩豊かな』音楽を発信してゆくことを目的としてはじめられた ものだ。二〇〇四年九月現在、すでに青木タイセイ/『Primero』、Warehouse/『Patrol girl』、ヴィンセント・アトミクス/『ヴィンセント II』という三枚のアルバムがリリースされており、十月にはアルゼンチンのフェルナンド・カブサッキ(g、electoronics)を中心としたセッ ション・アルバムが仕上がってくる。ということで、かなり好調な滑り出しだが、「リズム」、「サウンド」、「スタイル」、そして「国境」……こうした枠組 みを予め与えられたものとは考えず、音楽家どうしが演奏の現場で毎回、互いに持っている物を分け合う作業から音楽を立ち上げていこうとするためには、各々 のミュージシャンがまず自身の音楽をはっきりとハンドルしていること、そして同時に、そのように作り上げた自分のフィールドから何時でも遠く離れることが 出来るだけの勇気を持っていることが必要となってくる。これは実際、相当に難しいことだ。
だが思えば、世界各地のリズムと楽器を一曲の中に溶け込ませながら、一聴してそれとはっきり分かる個性的なアンサンブルを持つことが出来ている芳垣率い るヴィンセント・アトミクスは、世界が自由にクロスするそういった場所を幻想的に体現している、そのようなバンドであった。マルチ・インストゥルメンタリ ストとしての才能を充分に発揮させた青木タイセイの『Primero』。ふと手に触れたものを軽快にパッチワークしてゆくWarehouse……。グラマ ラス・レコードからリリースされているアルバムには、音を自分の手の中で捏ね、足で踏んづけながら作りあげてゆく過程の楽しさが共通している。イースト・ ワークスは、ミュージシャン自身にレーベルをプロデュース/オーガナイズさせることによって、ミュージシャンの個性をその音楽的なフォームの上にまで反映 させた、このようにボーダレスかつ深くパーソナルな音楽を作ることに成功している。
実際、イースト・ワークスは、その当初からGrandiscやBAJといったミュージシャン主導のサブ・レーベルを持ち、これまでに多くの、ある意味強 力に偏ったアイテムをリリースすることで、シーンに一石を投じ続けてきた。キップ・ハンラハンというニューヨークの鬼才と提携し、彼のプロデュースする 「アメリカン・クラヴェ」の諸作を日本に紹介するという作業も、ミュージシャンどうしの創造的な結びつきから素晴らしいレコードを作り出すキップの手腕を 出来る限り近い場所に曳き付けたい、という意志から来たものではないかとぼくは思う。そして確かに、キップ・ハンラハンを介して日本へと紹介されたミュー ジシャンたち――特に、ロビー・アミーン、オラシオ・「エルネグロ」・フェルナンデス、ペドロ・マルティネスなどの「ディープ・ルンバ」チーム――の影響 力は、若い世代のミュージシャンを中心に極めて大きく、これから先彼らと日本人ミュージシャンとあいだに更なるコラボレーションが行われていくのは間違い ないことだろう。また、「アメリカン・クラヴェ」からやってきたミュージシャンたちは、演奏現場のレヴェルだけではなく、その意識の状態――ニューヨー ク、東京、そして南米との距離の中から、自身の演奏の想像力を引き出すというエトランゼ的合力のあり方――において、既にコンボピアノの『AGATHA』 などに大きなインスパイアを与えているように思う。
キップ・ハンラハン自身もミュージシャンであるが、二〇〇〇年期に入り、コンボピアノがオーガナイズするSycamore(二〇〇一年)、また東京ザ ヴィヌルバッハを擁する『テクノ、ハウス以降の影響下において発生するジャズを紹介する』BodyElectoricレコード(二〇〇二年)が相次いで始 動、そして冒頭に挙げた芳垣プロデュースのGLAMOROUSレコード(二〇〇四年)の発足と、ミュージシャン主導によってレコードを作るイースト・ワー クス独特の姿勢はさらに加速されてきていると見ていいだろう。こうしたサブ・レーベルの存在は、そのレーベルをオーガナイズするミュージシャンの個性を トータルに発揮することの出来る可能性だけでなく、「他のミュージシャンをプロデュースする」という、多くのミュージシャンにとってはそれまで殆ど経験し たことのないだろう作業に触れる事で、また新たな角度から音楽を見る視点を得ることになるという利点を持っている。
演奏者、音楽創造者、モノを実際に造る人間の立場から一旦離れて、相手の想像力を想像する立場に立つこと。「プロデュース」とは
語源を尋ねると、もともとは演劇における「演出者」という意味らしいが、相手の行いたいこと、そして自分が思っている事を充分に擦り合せながら、ある音楽 を「演出」してゆくこと。レーベルをオーガナイズするということは、自身が「演出」したいミュージシャンを見つけ、彼と一緒に作品を作り、そうやって得た 音楽をまたさらに次の作品、次のミュージシャン、次のコンセプトに結びつけてゆくことで、何重にも折重なった総合的な世界を作り出してゆくことの他ならな い。イースト・ワークス内のサブ・レーベルは、現在の所まだそうした世界を得るまでには至っていないが、藤原大輔の『ジャジック・アノマリー』や東京ザ ヴィヌルバッハの『a8v』というエレクトロニック・ジャズ/フュージョンと、GOTH-TRADのヘヴィー・インダストリアル世界、および津上研太らの アコースティックな世界を結ぶラインを引くことが出来るならば、BodyElectoricは「アメリカン・クラヴェ」の重層性に匹敵する現代的な思想を 提示することが出来るはずだ。ここにはまだ幾つかの作品が欠けている。この隙間はこれから必ず埋められてゆくだろう。
プロデューサーが「演出を行う者」だとするならば、ピアニスト・南博に対するプロデューサー・菊地成孔の振る舞いは、まさしくその言葉のイデアを完全に 充たしたものであり、時に緩慢に、時に急速に進んで行く彼ら二人の共同作業は、「ジャズ」という、二〇世紀の全ての美と悲しみを溶かし込んだ音楽への愛を 支えに、この三年間静かに続けられてきたのだった。『こうして秋に着想され、三年目の秋を迎える10月10日にこのアルバムはドロップする。僕はすっかり 座り慣れたプロデューサーズ・チェアに再び座り直し、このアルバムの最大の目的である、ひとつは何故1950年代のアメリカを精神的な風景に持ったこの音 楽が生まれたのか?ということ、そして、南博を知る総ての、南博を知らぬ総ての人々に、彼の苦渋と葛藤と官能に満ちた、ヴェルヴェットの様に滑らかな精神 性の一端に、出来れば愛撫の手つきに似た繊細さでそっと触れて欲しいと心から願い、アルバム・タイトルはこうして、繊細な物に対して指先でそっと触れる、 ということ。そうした行為を巡るあらゆるヴァリエーションを含意している。』(菊地成孔のアルバム・プロダクション・ノートより)
菊地成孔と南博はコンセプト・ビルディング、具体的な選曲、アレンジ、演奏、録音、ストリングス・セクションのダビングとポスト・プロダクションなどな ど、音楽を得るために必要な具体的な作業を全て共にし、この幸福な関係から三〇分という小さな、(この大きさは「10インチLP」という、初期ブルーノー トの諸作が選んでいたサイズを思い起こさせる。まさしく50年代だ)しかし、圧倒的に美しい『TOUCHES & VELVETS』というアルバムが生まれた。
『デギュスタシオン・ジャズ』でも充分に発揮されている菊地成孔のプロデューサー的資質は、まず相手の一番はっきりとした、一番良質のヴォイスを聴き取 るところから発揮される。これはDCPRGのメンバーのサウンドの対称性(芳垣安洋と藤井信雄のドラムの鳴り方の素晴らしい対比)にも現われているところ だが、菊地は相手の言いたい事、その言い方に耳を澄まし、その後、その中からそれまで彼が(彼女が)思っていなかったような響きを取り出してくる。こうし た繊細な作業を、膨大なミュージシャンを相手に全面展開させて作りあげた作品こそ、全四十一トラックの『デギュスタシオン』であり、一人のミュージシャン だけに集中させて作りあげたのが全五曲の『TOUCHES & VELVETS』である。
彼の作品にリスナーは、一緒に音楽を作る為の、誰かと一緒に作業を行う為の、さまざまな可能性の束を見る。相手を受け入れ、こちらも条件を出し、強要さ れ、譲歩し、考え直し、裏をかく。こういった、人間どうしが深く関わる現場で起きるさまざまな事象を、そのまま音楽に出来ることこそ「ジャズ」というジャ ンルの持つ醍醐味であり、こうした関係性の豊かなヴァリエーションこそ、現在のリスナーが音楽から聴き取るべきものであるようにぼくには思われる。各人ご とにあらためて行われるその果てしない関係構築の作業のなかで、ようやっと譲ったり譲らなかったり出来るようなものではそもそもない、自分ではどうにもし ようが無いものが剥き出しになり、そうしたものを互いに認め合うところからミュージシャンは協力をはじめ、作品が生み出される。ボーダレスかつ個人的な作 品とは、そのような場所から出来上がってくるものなのだ。
ミュージシャンとしての立場、プロデューサーとしての立場、レーベル・オーガナイザーとしての立場。イースト・ワークスに所属しているアーティストたち は、このような複数の立場を往復することによって、音楽を重層的に制作する可能性を持っている。ここにある可能性は無尽蔵であり、まだまだ全く発揮されて はいない、とも言えるだろう。
さて、ぼくは、現在ここで聴くことが出来る作品のあいだに、さらに複数のラインを引くために、この冬一枚のコンピレーション・アルバムをプロデュースす ることになっている。そのアルバムに収録されるアーティストの音楽を、殆どの人はまだ一度も耳にしたことがないだろう。未だライブハウスの暗闇の中に留 まっている彼らの音楽を、アルバムという形に載せて複線化すること。彼らのトラックと、今まで出ているアルバムとのあいだに言語による批評で配線を行い、 そこでバチっと火花を飛ばさせること。プロデューサー/批評家としてのぼくの役割はそうしたものだ。現在、各グループは録音に入っている。全八グループ収 録予定のそのコンピレーション・アルバムに期待していて欲しい。
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