サウンド・アナトミア

サウンド・アナトミア―高柳昌行の探究と音響の起源
サウンド・アナトミア―高柳昌行の探究と音響の起源 北里 義之

青土社 2007-12

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ご紹介が遅れましたが、昨年の12月に音場舎主催の北里義之氏が第一著作『サウンド・アナトミア - 高柳昌行の探究と音響の起源』(青土社)という本を出版されています。

で、この本の第二章、「ケージではなく、何が」が、『貧しい音楽』収録の「ジョン・ケージは関係ない」に対する応答、というか、大谷、北里、大谷、北里と続いていた所謂「音響派」、「音響的即興」についての議論をまとめた文書となっております。ミシェル・フーコーの「まなざしの裸形性」を引きながら、モダンの時代がはじまるその瞬間に立ち戻ることを通して90年代末期のあらたな即興演奏について解説を試みようとしたもので、自分の文章が一杯引用されていてちょっと照れくさくもあるのですが、素晴らしい批評の叩き台になることが出来て光栄でした。10年やってきて、ようやっと話が通るようになってきたのでは? と思うと歓びもひとしおです。

自分のためのメモとして、2点だけ北里さんの批評に対してエクスキューズを。

1)「個人的な好みを排した、匿名的な音の世界」は、「多くの若手インプロヴァイザーは現在こうした場所に一度降りてゆくことを厭わない傾向を持っているように思う。」ということで、「一度」そこを通り抜ける必要があるもの、という意味で、つまり、それは即興によって目指されるべき「目的地」ではない。

2)すでに血肉と化し、透明になってるから分からないだけかもしれないんだけど、自分が「ポストモダン」的だ、ということの意味がどうしてもわからない。「モダン」の見直し、という作業については自覚的に取り組んでいる意識はありますが。

まあ、ともかく、拙文をこんなに丁寧に読んでくださって北里さんには本当に感謝してます。

と同時に、検索するとこんな意見も見つかりますね・・・。

http://d.hatena.ne.jp/musicincolours/20080116

たびたび思うんだけど、blogで対象を名指しで書いている人は、書かれた人がその文章を「読まない」と思っているのか、それとも「これは読んで欲しいなー」と思っているから名指しで書くのか? 前者だったら「あ、プライベートな所を覗いてしまってスンマセン」だし、後者だったらコメントなりなんなりを返すのが丁寧な気がしますが。

19日にはsim@名古屋Tokuzo 。20日は名古屋新栄パルレで「『貧しい音楽』を語る」レクチャーです。中京地方の方よろしくお願いします。sim名古屋初登場!