Denman Maroney / Hans Tammen 『Billabong』
———————-
自分が出したい音を楽器から引き出せるようになるためには、もちろんそれ相当の修練と集中力が必要な訳だけれど、これから生まれる音楽のデティールが予 め描かれてはいない即興演奏の演奏現場においては、それプラス、その場で起きている現象をなるべく多くの方向へと開いてゆくような、まだ溝付けの済んでい ない、十分にゆるめられた耳と思考の働きも必要となってくる。集中と拡散、緊張と弛緩、認識することと意識から取り溢したままでいること……こういった正 反対な作業を同時におこなってゆかなくてはならないのだから、実際これは非常に難しいことで、即興演奏を聴くこと、試みることの魅力のひとつは、このよう な両義的な状態を持続させるなかで、音や行為の意味がかたちを変えていくことにあるように思う。
指先を緊張させながら、鼓膜は脱力させておくこと。こうした作業のための具体的なメソッドは、各ミュージシャンがそれぞれ自分にあったやりかたで作り上 げていることだろう。そのなかでも、非常に有効かつ即効性がある方法のひとつとして、行為と発音とのあいだになんらかの回路を挟みこむ事によって、そこに 時間的/空間的距離を導き入れるというやりかたがある。手の動きによって作られた音が耳にたどり着くまでの距離を引き伸ばす事によって、そのあいだに一旦 リラクゼーションの姿勢を用意することが出来るという訳だけれど、音が辿る回路のありようによっては、そこには演奏者が予想もしていなかったようなサウン ドが介入してくる可能性も存在している。そもそも、レコード盤の上に音を刻み込み、それを再生して聴くという音楽の立ち上げシステム自体が、音と距離を取 るためのひとつの方法であって、ぼくたちは二十世紀の百年間、そうした回路によって何重にも引き伸ばされた音楽のなかで生活してきたともいえるだろう。
このアルバムには、さまざまな回路や道具を介在させることで、現在ひろく流通しているやり方とはすこし異なった形に拡張(あるいは、限定)された楽器を 使ったデュオ演奏が収められている。Denman Maroney が弾くのは「hyperpiano」で、Hans Tammen は「endangered guitar」を演奏する。超ピアノと危機に瀕したギターによるデュオという訳で、この名前付けが極めてシリアスな意図をもっておこなわれているのか、そ れとも単なる思い付きなのかは判断出来かねるが、hyperpianoという字面はキュートだし、endangered という言葉からはPARLAMENTの「BOP GUN(ENDANGERED SPECIES)」を思わず連想してしまい、実際、決してラウダーにならない、乾いたギターから感じる痙攣気味の瀕死感は、ローレンス・マザケイン・コ ナーズにも一脈通じるユーモラスな「弱さ」があるように思う。2~8チャンネルの独立したデバイスにギターの音を通す事でサウンドを作っているらしいのだ が、ディレイなどでフレーズを重ねて空間を埋めたり、エフェクターでトーンの色彩感を変化させたりといったはっきりとわかる効果は殆どおこなわず、拡張よ りもむしろ縮小、削除、衰弱、消尽といった方向から、演奏へむかう想像力を得ているような緊縛感がここにはある。一方、Maroney は、金属棒やアルミ製のサラダボウル、ゴム製のブロックやカセットテープ・ケースなどを使って弦をプリペアドし、時には弓を使用した内部奏法も使って、ピ アノから多彩な音を引き出している。鍵盤を弾きながらピンポン玉や発泡スチロール片をピアノの中に投げ入れ、ハンマーが弦を打つたびにそれらが跳ね上がっ て時にはピアノの外に飛び出す、という見た目にも相当面白い演奏を寶示戸亮二氏がやっているのを見た事があるのだけれど、ピアノという大きな楽器は部分部 分によって響きの形が随分違うだろうから、Maroney の演奏も是非とも目の前でその鳴りを体験してみたいところだ。ピアノのプリペアド&内部奏法はもっとポピュラーになってもいいと思うが、いまいち見る機会 が少ないのはおそらく、演奏で使われるピアノは殆どレンタルの、みんなで使う共有物だから、他人のてまえ思わず遠慮してしまう、という単純なことなのだろ う。ピアニストはもっと勇気を出して、自身の衝動の赴くままに積極的にピアノの中に手を突っ込んで欲しいと思う。
電気的なプロセスとアコースティックなプロセスとの違いはあれ、大胆に変形を加えられた弦楽器=弦打楽器の音色は、このアルバムでは時にはどれがどちら の音か判断がつかないほど複雑に溶け合い(特に、伝統的なサウンドから力を借りながら、最後には調性音楽から随分遠く離れたところまで進んでゆく8曲目は 聴き応えたっぷりだ)、スピーカーの向こう側に広がっている空間に対するこちらのイマジネーションに揺さぶりをかけてくれる。そして、おそらくこれは、演 奏後にこの録音をプレイバックして、「なんだこりゃ、これはどっちの音なんだ」と思って苦笑いをしたであろう、演奏者ふたりの経験と、それほど遠くないと ころにあるものだ。
ぼくたちは即興演奏の録音を聴く時、レコードという窓をとおしてあちらに広がっている空間を想像力で補い、そこにいま自分のなかを流れているようなリニ アな時間を想定して彼らの行為を聴き取っていくが、このアルバムで聴く事が出来るような演奏は、音とその発生源をヴィジュアル的に結びつけて想像すること が極めて難しい。こうした即興演奏は、ぼくたちが録音物を聴くときにおこなっているだろうさまざまな補完のシステムに、ぼくたちの意識を改めて向かわせて くれるだろう。音と音楽、演奏と非演奏を区別する事がむつかしいこうした録音物を聴き、拡張された素材を使った即興演奏のアンサンブルを分析しながら、同 時に、それがこうして自分の部屋に届けられ、まがりなにりも聴かれてしまうという事態が持っている可能性について、集中と脱力とのあいだを反復しながら、 ぼくはしばらく考えることが出来た。いいアルバムだ。