●「ex‐music」/佐々木敦
この本に収められているのは、批評家・佐々木敦が八〇年代の終わりから二〇〇二年までの間に執筆した「音楽」を巡るテキストの数々である。本書を手に 取った読者はまず、五〇〇ページを超えるこの本の厚さに、そして頁をめくる度に次々と登場してくるミュージシャンたちの膨大な数に驚かされることになるだ ろう。実際、佐々木氏が九〇年代におこなってきた批評・紹介・制作活動について、ぼくはある程度の知識を持っていたつもりだったけれども、これほどの数量 になっていようとは、装丁担当の佐々木暁氏がディレクションしたカバー写真、『TOWER RECORDS』(というのかどうか、剥き出しのレコードを数百枚積んで円柱にしたもの。素晴らしい!)の圧倒的な迫力とともに、この本は殆ど物質として の存在感を剥き出しにしてこちらに迫ってくるように感じられる。
ジョン・ゾーン、ハーフ・ジャパニーズ、キャロライナー、JLG、クリスチャン・マークレー、セントリドー、ベック、ジョン・フェイヒイ、ジム・オルー ク、ピタ、カールステン・ニコライ、オヴァル、トータス、竹村延和……こんな羅列ではまだまだ足りない、佐々木氏がこれまでに付き合ってきた音楽家とその 作品の数々、氏の批評だけが唯一アップ・トウ・デートなインフォメーションだったものも少なくないそれらのアイテムの集積に、ぼくは、その多くにリアルタ イムで接してきたリスナーの一人として、一〇数年という時間の厚みを思わず追体験してしまったのだけれども、佐々木氏の批評には本来そういった追憶を喚起 するような要素は殆ど(いや、まったくと言っていいほど)存在せず、また、これだけ沢山の文章が集められているにも関わらず、そこになんらかの価値体系を 形成しようとする動きも見ることが出来ない。決してスタティックな状態に落ち込むことのない、針を落すたびに何度でもあたらしく立ち上がってくるような軽 さ、スピード、即物性。この本の迫力は、細部まで厳密に位置づけられた体系的記述が持つ価値の遠近法の力に由来するのではなく、ひとつひとつの文章に内蔵 されているアクションの異なりが、時に相反し、時に折り重なって生み出されるロールオーヴァーな震動・錯乱状態から生まれて来ているのものだと思う。
普遍からの距離で作品のなかに映りこんでしまっている音や影像を計ることなく、そこにある可能性の異なりを出来るだけばらばらに見つけ出し、それらと個 別に関係を結んでゆくこと。――ここには毎月気が遠くなるほどリリースされ続けるレコードの「量」と「速度」から眼を(そして、耳を)逸らさない人間だけ が得ることの出来る倫理があり、そうした作業から導き出される確かな批評の方法がある。
ぼくたちは現在、それが録音されたものならばすべて、楽音や雑音と言った音楽美学的な区別とは無関係に、それらを聴いて楽しもうとする姿勢を用意するこ とが出来るようになっていると思う。ジャンルや音質、歴史的位置付け、楽曲の良さ、商品的完成度云々といったこれまでの価値基準から一旦離れ、まずはそこ に映しこまれている音像とその編集に対して耳を澄まそうとすること。こうした試みはおそらく、一九九〇年代の半ばからぼくたちの周りで顕在化しはじめてき たものだ。ほんの数年前の出来事なので、その契機を正確に分析することはまだ難しいけれども、大型レコード店の売り場を――インポート、リイシュー、イン ディーズその他のアイテムが見渡す限り並べられている広大なビルのフロアーを彷徨ったことがある人間ならば、時折目の前の棚からぼんやりと顔を上げて、こ れらのレコードたちに共通してあるものは何なのか、そしてそれを同じ耳で聴くために必要な姿勢とはどういったものか、と言ったようなきわめて原理論的な疑 問を思い浮かべたことが必ずあるはずだと思う。そして、こうした問いかけの中から、レコードによるリスニング・システムを成り立たせている録音・再生機器 そのものの性質――例えば、自らを震わせたものを、価値判断を抜きにしてすべて平等に変換し続けるというマイクロフォンとピックアップの基本的な機能―― に出来るだけ近い場所で音を聴こうとするラディカルな姿勢や、わずか数枚のディスクの為にあらたなジャンルを捏造してすぐさまそれを破棄する、というよう な試みも生まれてきているのだ。
レコードで音楽を聴くという経験を、過去に行なわれた生演奏の追体験としてではなく、目の前で現在回転しているディスクと再生機器の運動にまで引き下ろ してから考えてみること。これまでその音盤を取り巻いていた言説に見直しを迫るこうした姿勢は、また一方では、好みという基準に従って自身の趣味性を圧倒 的に強固なものにしてゆく刹那への動きとも切り離すことが出来ない。こうした二律背反を受け止めながら、レコードのなかに収められた一つ一つの切れ目、個 人個人の欲望の発露、そしてそれを成り立たせている知覚の原理へと向けて自身のリスニングを開いてゆくこと。佐々木敦が無数のディスクと付き合いながら実 践してきたのはこのような批評活動であるが、こうしたスタンスは九〇年代の後半にあらわれた一群の音楽家にも共通して認められるものであり、本書が捧げら れているジム・オルークこそ、そうした場所に誰よりも早く入り込んだミュージシャンの代表に他ならない。『ex-music』の後半部分は、録音物の性質 と深く切り結ぶことによってこれまでの音楽の「外」に出ざるを得なくなった、ぼくたちと同時代を生きるミュージシャンが数多く登場してくる。『「ex- music」とは、文字通りの意味で「外=音楽」であり、また「かつて音楽であったもの」ということでもある。exはexceptionalのexでもあ るし、experimentalのexでもあり、あるいはextrasensoryのex、ことによるとexhaustedのexかもしれない。』(あと がきより)
映画批評と音楽批評を同時に書き進めることで自身のキャリアをスタートさせた佐々木氏は、レンズとフィルム、マイクロフォンとレコードという、近代がぼ くたちの「外」に作り出した「眼」と「耳」の働きについて常に考え続けて来た。ぼくたちの知覚と認識と記憶は、ぼくたちの「外」に生まれた「眼=映画」や 「耳=音楽」との関わりの中でどのような変化を被ることになるのか。氏の関心は常にそうした所にあり、また、さらに言うならば、佐々木敦はそうした自身の 外側にあるメディアのひとつとして、フィルムやレコードと同じような姿勢で「ことば」の存在を意識している、ぼくたちの世代では数少ない批評家であるよう に思われる。「ex=そと/ほか」や「最後から二番目」といった言葉によって常にズラされ、振動し続けるように設置された氏の思考の焦点は、これからもさ まざまな現象の「危機的=批評的」ポイントに結ばれ続けてゆくに違いない。
最後に、『ex-music』をさらに「外」へと向かって押し広げるために、この本と問題系が重なる何冊かの書物を紹介しておきたい。先日同氏が上梓し た『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社)では、本書における思考が原理論のレヴェルで展開されており、是非とも併読をお薦めする。フリー・ジャズから はじまり、現在の即興演奏へとつながってゆく「インプロヴィゼーション」を巡る事象は上述の二書における佐々木氏の主要な関心のひとつであるが、清水俊彦 氏の『ジャズ・オルタナティヴ』(青土社)を読むことで、読者はその運動の軌跡を辿ることが出来るだろう。若尾裕氏の『奏でることの力』(春秋社)は、音 と音楽との現在的な関係を巡った美しい本。きわめて実践的な示唆が多数含まれている。『ex-music』とタメるほど固有名詞が登場する『めかくし ジュークボックス』(工作舎)の賑やかな頁をぱらぱらと斜め読みしながら、読書と音楽鑑賞というアクションのあいだを出来るだけ大きく往復してみて欲しい とも思う。