Gnu 明確な意志に支えられた、異形のグルーヴ・ミュージック
日本人のリズム咀嚼力は、ダンス・ミュージックのデジタル化が完璧にまで進んだ90年代を通過して、どのくらいアップしたのか? ということについて は、夏まゆみ先生による新しいラジオ体操の振り付けを国民全員で踊ってみなければ判断出来ない問題だが、現在の耳でもって、例えば過去に「フリージャズ」 と呼ばれてきたような音楽を聴きなおしてみると、一定のリズム・パターンを刻まないドラミング、という括りでこれまで一緒くたに考えていたものが、そのア プローチの異なりによって大きく二つに分かれて聴こえることに気が付く。一方は、最近ではティム・バーンズやスティーヴン・フリンらに代表される、フレー ズ毎に基本拍をリセットし、サウンドの屈曲率を点滅的に変化させることでリズム・フィールドを拡散させてゆくスタイル。もう一方は、曲中ずっと基礎となる 拍をキープしながら、それを自由に分割・レイヤーすることによって複雑なリズム空間を作り出す、ラシッド・アリからチャド・テイラーまでつながる演奏スタ イルだ。この二つの奏法が寄って立つ世界観をそれぞれ敷衍していくと、片方は、演奏される音と音との間からビートを剥ぎ取り、如何にして各音をそれぞれ自 律した響きとして聴かせるか? と云った現在即興演奏の最前衛において探求されている問題につながり、片方は、世界の中からどのようにビートを切り出し、 あらたなグルーヴを作り出すか? と云うブレイクビーツの実践にまで結びついてゆく。ヨーロッパとアフリカが混交して生まれた20世紀のアメリカ音楽から は、こうした両極端とも云える音楽の可能性を同時に引き出してくることが出来る訳だけれども、ひとつの音楽の中に混在しているこのような質の異なりを切り 分け、それぞれを遥か遠くまで推し進めて、適切なフォームをそこにあらたに発見することは、やはり容易ではないことだ。
大蔵雅彦は、現在最も厳密、複雑かつユーモラスなかたちで、音楽にあらたな曲がり角を曲がらせ続けているミュージシャンである。90年代を通して、大蔵 は自身が行うことの出来る作業と、20世紀音楽の中から聴き取った本質との関係を徐々に磨き続け、ここ数年、アルト・サキソフォン/バス・クラリネット/ ベース・チューブといった管楽器を使った即興演奏と、シーケンサーによって隅々まで完全に作曲されたバンド・アンサンブル作品と云う、対照的な二つの フォームで際立った成果を挙げることに成功している。大蔵のリーダー・バンドGnuの新作、『Suro』は、前述の分類で云うならば後者、きわめてアフリ カ的なリズム・フィーリングの中で、ツイン・ドラムスのアクセントをずらし、サックスとキーボードに対位法を演奏させ、ベースの反復ポイントを変え、ブレ イクを織り込み、グルーヴ・ミュージックの世界を自覚的に拡大しようと試みた傑作である。骨折しかねないほど沢山の仕掛けに充たされた大蔵の作曲は、P- FUNKのようにプログレッシヴで、伊福部昭のようにスケールが大きく、ムーンドッグのようにリリカルだ。そうした楽曲群をキャプテン・ビーフハートと彼 のマジック・バンド並に鉄壁なアンサンブルで聴かせるのだからGnuのライブは堪らないが、幾ら曲が複雑になっても開放的に踊ることが出来るのは、『ワ ン・ネイション・アンダー・ザ・グルーヴ』というポイントを大蔵が決して外しはしないからだろう。一点を揺るぎなく押さえ、そこから複雑な構造を再展開し てゆく。こうした大蔵のダイナミズムを是非ともアルバムとライブで経験してみて欲しいと思う。