学研200CDジャズ入門

●歴史コラム

<バンド・スタイルの変遷から見るジャズ史>

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1.ニューオリンズから各地へ

現在「ジャズ」と呼ばれている音楽は、十九世紀の終わりから二〇世紀初頭にかけてのアメリカ・ニューオリンズのストリートで演奏されていたバンドのサウ ンドにその起源が求められる。と、ジャズの歴史について語っているさまざまな本に当たると、大体はそのように書かれてある。スペイン、フランス、イギリス と統治者が代わった後にアメリカ合衆国の領土となったニューオリンズは、アメリカ南部とカリブ海世界の接点として、また、世界中から物資が集められる国際 的な貿易港として、この時期、殆ど「世界の縮図」を思わせる様な混血的な文化を育んでいた。ヨーロッパ各国からの移民、奴隷として連れて来られた黒人、そ してその混血であり、二〇世紀直前まで白人種と同等の権利が認められていたクリオールらが入り混じって、ニューオリンズのストリートでは相当にさまざまな 音楽が奏でられていたようだ。そうした街頭の音楽の中でも独特だったのは、何本かの管楽器で即興的にアンサンブルしながら練り歩く黒人のブラス・バンド で、十九世紀のダンス・ミュージックとして一般的だったワルツやマズルカ、ポルカのリズム、その頃流行しはじめていたラグタイムのビート感、南米のカリプ ソ、世界各国の民謡などが彼らの音楽の中には溶け込んでおり、こうした港町独特の国際性が以後複雑な発展を遂げる「ジャズ」という音楽の心棒となったのは 間違いないことだろう。残念な事に、この時代はまだ録音・再生技術が充分に発展していなかったので、ニューオリンズのストリートに響いていたインターナ ショナルな演奏の記録そのものは残されていない。ミュージシャン同士の自発的・即興的なやりとりを中心においたニューオリンズ・スタイル(というよりも、 モダン・ジャズにつながる全てのジャズ・ミュージック)は譜面に書き記すことが不可能であったため、それがどのようなものであったのかを探るには録音に頼 る他ない。だが、このあたりが多少複雑な所なのだが、現在ぼくたちが聴くことの出来る最古の「ジャズ」の録音は、ニューオリンズのストリート・ミュージッ クが衰退を始めた後、第一次大戦への参戦決定でニューオリンズの公娼街が閉鎖され(余談になるが、アメリカの歴史の中で公娼が認められていた街はこの時期 のニューオリンズが唯一、最初で最後である)、シカゴなどに巡業に出るしか無くなったミュージシャンたちによって、アメリカ北部の工業都市へとその音楽が 運ばれた後に吹き込まれたものである、ということだ。シカゴなどの大都市では、ニューオリンズから来たミュージシャンの音楽スタイルは熱狂的な地元の白人 たちの手によってあっという間にコピーされ、禁酒法時代(一九二〇~一九三三)には既にバンド編成も様式化されて、現在「ディキシー」と呼ばれている音楽 のモデルは、この時代に定着したスピーク・イージー用の小規模なダンス・ミュージック・バンド――フロントにクラリネット、コルネット、トロンボーン各一 本づつ、リズム・セクションとしてピアノ、バンジョー(またはギター)、ベース、ドラムス――に拠っている。このサウンドがニューオリンズの街頭で響いて いたものと、例えば『ベスト・オブ・ディキシーランド』(ルイ・アームストロング verveUCCV-4015)での演奏はすでにどの程度ショーアップ されたものなのか、ということについては推測するしかないのだが、いずれにしろ、ジェリー・ロール・モートン、キング・オリヴァー、フレディ・ケパード、 ジョニー・ドッズ、ルイ・アームストロングなど、ニューオリンズから出てさまざまな都市で巡業を続けたミュージシャンたちは、小規模編成によるそのホット な即興性でアメリカ各地に大影響を与え――例えばニューヨークでは、その頃大流行していたストライド・ピアノ奏法と結びついて高度に編曲されたジャズ・ オーケストラを生み出し、カンサスではブルーズの伝統を強く注入され、リフレインを中心としたハードなダンス・ミュージックに発展する、といった具合に ――アメリカのポピュラー音楽を、もはや後戻り不可能なほどはっきりと変えてしまったのだった。