学研200CDジャズ入門

2.スウィング・ジェネレーション

ニューオリンズからやって来たミュージシャンたちに生気を与えられたアメリカ各地のバンドマンは、肌の色を問わず、みな一斉にそのスタイルを自身の音楽 性の中に取り入れようと試みはじめ、特に「ローリング・二〇’S」の好景気とハーレム・ルネッサンスに沸くニューヨークでは、星の数ほどあったモグリ酒場 とホテルのボールルームを舞台に、さまざまバンドが互いに研究しあい、腕を競い合っていった。高度なクラシック教育を受け、白人ダンス教室のピアノ伴奏や レッスンを請け負っていたジェイムス・P・ジョンソン、ウィリー・ザ・ライオン・スミスといったストライド・ピアニストをボスとして持っていたニューヨー クのミュージシャンたちは、ニューオリンズ的なホットさを保ちながらバンドに和声的繊細さを導入し、巨大なボールルームでも充分に見栄えがする大編成のバ ンドを組織することに取り組んだ。二〇年代を代表するバンド、フレッチャー・ヘンダーソン楽団(彼の活動をまとめたアルバムとして『ケン・バーンズ・ジャ ズ~20世紀のジャズの宝物』 (SME SRCS-9650)を挙げておく)およびデューク・エリントン楽団に務めたレックス・スチュワートは、著書『ジャズ一九三〇年代』(草思社)において、 当時の雰囲気を良く伝える以下ようなエピソードを語っている。『トーマス・”ファッツ”・ウォーラーは、他の第一線級ピアニストたちとはちょっと違う場所 に立っていた。ピアノをひとつのオーケストラとして捉えていたのである。パーティや社交的な集まりでは、ラグやストンプやブルースを他人と変わりなく弾い たが、それは彼の一面にすぎなかった。しばしばカフェのピアノで、考えかんがえ和音をたたき、「いまのがサックス・セクション……そこへ今度はブラスが 入ってくる」などと、聴き惚れている仲間たちに説明したものだった。ウォーラーはいつでも曲のなかに色彩豊かなサウンドを織り込もうと苦心していた。』彼 らは三官のフロントを最大八人編成にまで拡大し(tp二本、tb二本、saxおよびcl四本など)、自由自在にソリストとバックの音色を組み合わせ、バネ の効いたダンス・サウンドの中に当時流行していた全てのポピュラー音楽を溶け込ませて演奏出来るジャズ・オーケストラを作り出した。折からのラジオ・ブー ムも手伝って、彼らのサウンドは全国に大きな影響を与えてゆくことになる。
が、ここで大恐慌が起こる。一九三〇年から一九三四年まで続く大不況時代、人々に好まれたのは「スウィート・スタイル」と呼ばれる甘く緩やかな白人的ポ ピュラー音楽であり、フレッチャー・ヘンダーソンらが工夫したアンサンブルから「ジャズ」的な要素を脱臭したような白人バンドに押されて、デューク・エリ ントンやルイ・アームストロングらはしばらくヨーロッパ巡業へと脱出、また多くの黒人ミュージシャンは廃業の憂き目を見ることになる。そうした国内の状況 がようやっと回復しはじめた一九三五年、今度はベニー・グッドマンによってあらたに熱狂的なスウィング・ミュージック・ブームが沸き起こる。小気味良いリ ズム、美しいクラリネットの響き、良く整えられたアレンジ……。これまでさまざまな音楽に大影響を与えながらも、社会的にはアンダーグラウンドに留まって いた「ジャズ」ミュージックは、ここではじめてアメリカのセンター・フィールドに踊り出る。『不況を克服したアメリカ市民は二才の童子から八十才の老人ま でが、ベニー・グッドマンのスイング・ミュージックに狂喜乱舞したのである。「これこそアメリカの音楽だ!」と彼らは叫んだ。』(油井正一・『ジャズの歴 史物語』)。グッドマンに続いてトミー・ドーシー、グレン・グレイ、アーティ・ショウ、グレン・ミラーらのバンドが続々とチャートにヒット曲を送り込む が、黒人「ジャズ」バンドはこれら白人「スウィング」バンドとは異なったものだと思われており(油井正一曰く、『大衆はスイング・ミュージックとは白人が はじめた新しいアメリカの音楽だと思いこんでいたのである。』)こうした流行とは無縁のままであった。