2004年? シカゴ・アンダーグラウンド・トリオ 『スロン』 ライナーノーツ(4000w)

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トランペット(またはコルネット、またはフリューゲル・ホルン)奏者のなかには時々、自分の演奏するべき音楽のフォルムに対して、驚くほど豊かに想像力 を働かせることが出来る人がいて、モダン・ジャズ50年の歴史だけに限ってみても、米国都市音楽からラテン・アメリカへとつながるラインを太く太く引いた ディジー・ガレスピー、ナップサックひとつで世界のどの場所にも現れるドン・チェリー、巨大な祝祭空間を演出し続けたレスター・ボウイ、そして、『マイル ス(ひとりが)何マイルも先を』マイルス・デイヴィス……と、こうやって直ぐに何人かのミュージシャンの名前を挙げることが出来る。それにしても、これは ほんとに、なんとも独特なアンサンブルを作り挙げた人たちばかりが並んだなあ。音楽的にはばらんばらんな彼らに、もし共通する点があるとするならば、それ は、楽器を操る確かな腕前を持ちながら、それに囚われ過ぎることなく(楽器奏者のなかには、残念なことに現在でもしばしば、楽器を演奏する為に必要な技術 的側面からしか物事を判断することが出来ない人たちがいるのだ)、非常に柔軟な耳でもってかなり高い視点からミュージックを見る/聴くことが出来ていたと ころだろう。自分の作った音から一旦離れ、バンドのなかで、聴衆のなかで、さらに言えば世界のなかで、それが如何に響いているか? それを如何に響かせれ ばいいのか? こうしたことを考えながら演奏を続けてきた彼らは、その長いキャリアのなかで、ジャズ・ミュージックにさまざまな複線を付け加え、いまでも そこからたくさんの可能性を引き出すことの出来る豊穣な土地をぼくたちにひらいておいてくれたと思う。
そういった開拓者の系譜に連なるミュージシャンとして、ロブ・マズレクの名前を挙げるのは、けっして大げさなことではないだろう。マズレクを中心とし て、デュオ、トリオ、カルテット、オーケストラ、と編成を変えながら続けられてきた「シカゴ・アンダーグラウンド」プロジェクトは、作曲、編曲、演奏、録 音、編集、という、現在音楽を制作するために踏まれるプロセスのひとつひとつに繊細な注意を払うことで、インストゥルメンタル・ミュージックのあらたなモ デルを提示することに成功している。プレイヤーの演奏能力を音楽の基盤に置いている点では、ロブたちのプロジェクトは確かにジャズの伝統を受け継いではじ められたものだ。が、しかし、彼らは、ステージ上だけで音楽が完結すると考えがちなジャズ・ミュージシャンたちとは異なり、録音や編集といった、いわゆる ポスト・プロダクションまでを含めた音楽の創造に対して、かなり早い時期から敏感に反応することが出来ていたように思われる。これは勿論、ジム・オルーク やジョン・マッケンタイア、それに本作でもレコーディングとミックスを担当しているバンディ・K・ブラウンら、彼らを取り巻くきわめて今日的な、非常に優 れたミュージシャン/エンジニアたちの影響が大きいだろう。「シカゴ・アンダーグラウンド」プロジェクトの特徴は、そのようにして身に付けたノン・リニア なサウンド編集の技術を、また改めてデュオやトリオ、カルテットという極めて具体的な「演奏」のフォーマットに、また、そのための「作曲」のノウハウに、 反映させ続けている点にあると思う。結成からこれまでに発表されたアルバムは、この『SLON』を含めて計8枚。アルバムやフォーマットごとにその音の傾 向は丁寧にデザインされ、一作毎に発展、というよりはエレガントに拡散し続けてきたC.U.の実験は、ラップトップ・コンピューターによって音を処理する システムが演奏の現場でも一般的に受け入れられはじめている現在、ますます本領を発揮してゆくに違いない。
という訳で、シカゴ・アンダーグラウンド・トリオ(以下C.U.T)の新作が届いたよ、という知らせを受けてぼくは、ロブさんたちはいま絶好調なんだろ うな、と勝手に思って喜んでいたのだけれど、そのあと、「今回の作品は『イラク戦争への彼らの思いが反映されたアンチ・ウォー・アルバム』なんだって」、 と聞いて、正直言って鼻白んだ。このアルバムは、『アメリカ帝国主義の包囲網によって自身の生活を奪われた総ての人々』に捧げられている。C.U.Tの3 人は、広い範囲にわたるヨーロッパ・ツアーに出発した2日後、アメリカがイラク侵略を開始したことを知り、そのツアー後、アメリカ軍がイラクに駐留し続け ている最中に、このアルバムを制作した。『その戦争はグループや彼等の音楽に深く影響を与えた』と、プレス・キットには書いてある。
ぼくはここで、戦争と音楽との関係を改めて云々するつもりはない。これまでも音楽でもって戦争に対峙しようとした人たちは沢山いたし、戦争との緊張関係 から想像力を汲み出してきた音楽家もいれば、逆に視野狭窄に陥ってしまった音楽家もいる。言葉でもって音楽になんらかの政治的意図を与えようとすることは 難しくないが、その有効性はしばしば、その音楽の構造とは無関係に推移して行く。また、ある音楽にぼくたちの暮らしている政治的状況のモデルが真に含まれ ているならば、作者が何も言わなくともおそらく、人はそこに生きるために必要な倫理を聴き取ることだろう。とにかく、まずは、デジタル・オーディオとして パッケージングされ、ぼくたちの元に届けられているこの作品に注意深く耳を傾けてみよう。
トラック1。冒頭、ロブ・マズレクのコルネットが旋回させる小さなメロディーに導かれ、チャド・テイラーの手数の多いドラムスがスタート。直ぐにノエ ル・クッパースミスのベースがFペンタトニックのヴァンプで曲の基盤を支え、シンプルなテーマをゆがめるようにしてロブが急速超のソロを取る。アコース ティック・ジャズの王道のようなサウンドだが、1:30秒を過ぎたところで多重録音されたアルコ・ベースが、殆ど電子音響的な陰影を伴ってトリオのサウン ドに介入しはじめる。ドラムスがBPMをキープしたままなのでしばらく気が付かないが、いつのまにか8/8で演奏されていたトリオの演奏に、6/8のベー スとコルネットのリフがスーパー・インポーズされており、さらにその音に3連譜で刻まれる弓弾きのベースが重ねられ、シンプルだが深みのあるポリリズムが 形作られる。ロブのコルネットが再び熱を帯び、8/6拍子の前景化をはっきりさせるようにドラムスはフェイド・アウト。ベースとコルネットのリフレイン、 それに弓弾きのコードの上でコルネットのソロが続き、6:30でこの曲は実に自然にエンディングを迎える。2度、3度と聴きなおして感心しているのだが、 即興演奏でしか生まれ得ない熱気と、緊密な構成、そしてそれをスムースに接続させるトリートメントの巧みさは、C.U.Tがこれまでに行ってきた実験の最 良の結実ではないかと思う。
2曲目の『スロン』は一転して、クッパースミスが制作したというリズミックかつフリーキーな電子音ではじまる。コンピューターのプラグイン・ソフトで加 工されたパーカッションの音のようにも聴こえるこのサウンドのリズム・パターンが安定したところで、ミュートされたコルネットとアルコ・ベースによるテー マが、指弾きのベース・パターンと交互に奏される。これは完全に作曲された作品だろう。電子音、ミュート・コルネット+アルコ・ベース、指弾きのベース、 という4つの異なったサウンドが時間と空間のなかに上手く配置されていることがわかる。3曲目も完全にコンポーズされた曲で、『スロン』とはまた異なった 電子音、細かく重ねられたデジタルの霧の噴射によって雰囲気が作られ、そこに落ち着いたテンポで3人の演奏が重ねられてゆく。4曲目は新伝承派の曲と演 奏、といってもおかしくない完全アコースティックのバビッシュなトラック。5曲目はドラムスがメイン。バス・ドラムで基本拍を提示しながら、チャド・テイ ラーはその上に自由に複数のリズムをレイヤーしてゆく。エルヴィン・ジョーンズがジョン・コルトレーンとのカルテットで探求した手法だが、チャドはこうし たリズムの折り重ねを、ソリストのアイディアを直接的にプッシュするためではなく、例えばマルチ・トラック上に並べたパーツをONOFFすることで意外な リズム空間が発見されことにも似た、複数の演奏スペースの同時的な提示を目的として行っているように思われる。トラック6はコンピューター・トラック+3 人のノー・グルーヴ完全即興。トラック7はフィールド・レコーディング+リズム・ボックス的ビート+逆回転風のシンセ・サウンド、という完全なベッドルー ム・テクノ・ミュージック……。
このアルバムは、データによると、『一日で音楽を録音し、一日でミックスし、一日でテープをカット』して作られたものだという。つまり3日間でここに響 いているサウンドの総てが出来上がったという訳だが、これが本当だとするならば、これらの楽曲のヴァリエーションと完成度は尋常ではない。こうした集中力 の在り方は、ツアーのなかで(毎晩のステージの上で)曲と演奏とのあいだに張り巡らされた複雑な緊張関係を磨き上げていく、ジャズ・ミュージシャンに固有 のものなのではないかとぼくは思う。トリオと名乗りながらも、実質的にはギターのジェフ・パーカーを加えたカルテットでのアンサンブル探求であった C.U.Tの前作『フレイムスロワー』と異なり、『スロン』はきわめてストレートな「トリオ」で作りあげられたサウンドで充たされている。また、これまで C.U.TおよびC.U.Dで多様されてきたチャドのヴィブラフォンも、今回はまったく登場することがない。このアルバムからは、これまで「シカゴ・アン ダーグラウンド」として彼らが広く行ってきた実験の成果を、彼ら自身が、自分たちの為に切実に必要とし、そしてそれを最大限に利用することで作りあげたサ ウンドが聴こえてくる。ある種の止むに止まれぬ怒り、恐怖、悲しみの表明としてこのアルバムが作られているとするならば、そうしたものを作るにあたって彼 らが選んだプロセスが、拡大よりも縮小を志向し、自分がしっかりハンドル出来るもの、十分に習熟しているもの、ちいさく、すばやく、確実に出来るもので仕 上げられているのは興味深いことだ。作曲と即興。アコースティック楽器とエレクトロニクス。フィールド・レコーディングと平均律。リアルタイム・デジタ ル・プロセッシング。ポリリズム。エモーションとイマジネーションの他に、彼等の手の中にはこうしたものがあった。自分の手元を見直したとき、ぼくたちは 一体何を使って、どんなことが出来るだろうか。

サイゾー2006年8月

東京サーチ&デストロイ (第4回)

東急東横線が「高島町」と「桜木町」という二つの駅を盲腸みたいに切り捨て、「みなとみらい線」という新しい地下鉄につながって「元町・中華街」を終点 とするようになってからもう二年半が経つ。この連載は「東京サーチ&デストロイ」と名乗っているけれど、実は僕は普段は横浜で生活している人間であり、何 かイベントや仕事がある度に都内へ出て行くことにしているのだが、ぼーっとしている間にいきなり最寄り駅である東急桜木町駅が消滅していたのには衝撃を受 けた。MM(みなとみらい)地区とか言って20年近く港湾周辺の整備をしているのは勿論判っていたけれど、まさか本当に東京への導線自体を変えてしまうと は…。まあ、変わってしまったものはしょうがない、あまり阿呆なスクラップ&ビルドが始まらないように(森ビルが再開発にガッチリ絡んでるって話だし)祈 るばかりである。実際、関内馬車道周辺で進められている「BANKART」や「北仲BRICK」などのプロジェクトでは、制作場所を求めるアーティストや 学生に空いた建築物をリストアして提供するって作業も始めているようで、横浜のアート/演劇/ダンス・シーンの活性化にこれから一役かってくれそうではあ る。
今回はそんな何かと騒がしい我が地元横浜でおこなわれた二つの公演を取り上げたい。ダンスを中心においたパフォーマンス・カンパニー<ニブロール>の振 付家である矢内原美邦によるソロ・プロジェクト第二弾『青ノ鳥』と、中野成樹(POOL-5)+フランケンズ 、劇団山縣家 、劇団820製作所、ユルガリ、という若手四団体が参加した「Summerholic 06 -恐怖劇場- 」である。場所はどちらも横浜西口のSTスポットだ。
STスポットは87年オープンということだからもう老舗ですね。さまざまな試みに理解がある貴重なスペースで、以前から提携や支援という形で若手アー ティストの育成に務めてきた。そういえば、僕は九〇年代の半ば頃に(いま調べてみたら96年でした)なんとリー・コニッツのソロをこのキャパ50人ほどの 場所で見たことがある。今回のこの二公演はたまたま7月1日と7月8日という近い日程で上演されたものに僕が行って来たというだけであって、直接的なつな がりはないのだけれど、どの作品も確かに「演劇」であると同時に、なにかそういったものをどうしようもなくハミ出した過剰さが感じられ…その過剰さは、例 えば「激しい」とか「厳しい」とかいった形容で表されるような「強さ」を感じさせるものだけではなく、だらしなく崩れているとか、上手くまとまっていな い、とか、話が良く判らないとかいった、何が無駄で何が無駄じゃないのか簡単に整理が出来ないような、そんな弱い?過剰さがそれぞれの作品に組み込まれて いて、そこがまず僕には非常に<しっくりときた>。ステージ上で出来ることっていうのは、本当に本当にたくさんあるんだな、というのが二公演を見ての素直 な感想です。
九〇年代の後半から00年くらいにかけて旗揚げした演劇やダンスの団体が、ステージ・プロパーの枠を超えて、僕みたいな音楽をやっている人間にも凄くア ピールする作品を発表し始めているよ、といったことを教えてくれた友人がいて、それで僕も最近いろいろと勧められたステージを見に行くようになったのだけ れど、観劇の素人ながら感じるのは、舞台というものを成り立たせている装置に対して彼らがはっきりと、でも自覚的というよりもほとんど生活者としての基本 的な所から「んー?」と思っているということであり、まず自分たちの身の丈にあった範囲でそういった基本の感覚を舞台に載せてゆき、そうやっているうちに その結果がまっすぐ自分とそのジャンルの歴史になっていくような、なんというか、殆ど世界創造時のようなデタラメな軽さと明るさが彼ら彼女らのステージに は充ちているように僕は思って、こっちも元気になってくる。久しぶりの感覚で、そういえば音楽の分野ではしばらくこうした雰囲気を味わっていなかったよう な気がする。話がつい抽象的になっちゃったけど、今度機会を作ってもうちょっと具体的に書くようにします。とにかく、演劇はすごく面白い。横浜サーチ&デ ストロイ。

美術手帳2003年?

Dill 『wyhiwyg』インタビュー

パソコンに取り込んで適当な処理をおこなえば、身のまわりで鳴っているどんな音からも音楽を作り出せるようになった現在、ぼくたちは殆どお菓子の家に住ん でいるみたいなものだけれど、ミュージシャンはやっぱり、そんな中からまだ誰も食べたことのない響きを探し出して、これとしか言いようがない一品に仕上げ る腕前を持っている。先日FlyrecからリリースされたDillの『wyhiwyg』(読みは「ウィヒウィグ」ね)は、フレーズに付けられた影と滲みの 階調が実に魅力的な、彼のファースト・アルバムである。「アルバムを出して、えーと、昨日までは大阪で『発条ト』っていうダンス・カンパニーの音楽をやっ ていました。90時間くらいかけたワークショップ作品の公演だったんですけど、各ダンサーがヴィデオで録ってきた音を編集したり、練習の前にワークショッ プ生がいたずらで弾いてたピアノの音があったんで、それを取り込んで使ったりしました。」普段使っている機材は「普通のMacとCuBASE」という Dill.。今回のアルバムではメモリーが足りなくて大変だったそうだ。「でも、例えばMaxみたいなソフトは一切使っていないので、ほんとただ単に容量 が足りなくて手間だったってことですね。パソコンの処理能力ってかなり上がってますから、サウンド・ファイルをプロセスするだけっていうやり方でも結構面 白かったりもするんだけど、やっぱそんな簡単な方法だと自分の作りたい音って録れないんで。ライブでも単にパソコン上の音を流すんじゃなくて、チェロやコ ントラバスを入れたり、あとロックバンド的な編成でやったりとか、まあ色々やってみているんで、アルバムを気に入ってくれた人は是非ライブにも足を運んで みてください。」

2004年、EWEカタログ

●EWEの新潮流について

大谷能生

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今年の六月、イースト・ワークス・エンタテインメントは、ミュージシャン・芳垣安洋がプロデュースする『GLAMOROUS Records』を新たに 立ち上げた。このレーベルは、これまで本当にさまざまなバンドやセッションでドラムを叩き続けて来た芳垣安洋が、『「リズム」「サウンド」「スタイル」そ して「国境」をも越えて音楽家達が集う』場所を切り開き、そこから『カテゴライズしきれない色彩豊かな』音楽を発信してゆくことを目的としてはじめられた ものだ。二〇〇四年九月現在、すでに青木タイセイ/『Primero』、Warehouse/『Patrol girl』、ヴィンセント・アトミクス/『ヴィンセント II』という三枚のアルバムがリリースされており、十月にはアルゼンチンのフェルナンド・カブサッキ(g、electoronics)を中心としたセッ ション・アルバムが仕上がってくる。ということで、かなり好調な滑り出しだが、「リズム」、「サウンド」、「スタイル」、そして「国境」……こうした枠組 みを予め与えられたものとは考えず、音楽家どうしが演奏の現場で毎回、互いに持っている物を分け合う作業から音楽を立ち上げていこうとするためには、各々 のミュージシャンがまず自身の音楽をはっきりとハンドルしていること、そして同時に、そのように作り上げた自分のフィールドから何時でも遠く離れることが 出来るだけの勇気を持っていることが必要となってくる。これは実際、相当に難しいことだ。
だが思えば、世界各地のリズムと楽器を一曲の中に溶け込ませながら、一聴してそれとはっきり分かる個性的なアンサンブルを持つことが出来ている芳垣率い るヴィンセント・アトミクスは、世界が自由にクロスするそういった場所を幻想的に体現している、そのようなバンドであった。マルチ・インストゥルメンタリ ストとしての才能を充分に発揮させた青木タイセイの『Primero』。ふと手に触れたものを軽快にパッチワークしてゆくWarehouse……。グラマ ラス・レコードからリリースされているアルバムには、音を自分の手の中で捏ね、足で踏んづけながら作りあげてゆく過程の楽しさが共通している。イースト・ ワークスは、ミュージシャン自身にレーベルをプロデュース/オーガナイズさせることによって、ミュージシャンの個性をその音楽的なフォームの上にまで反映 させた、このようにボーダレスかつ深くパーソナルな音楽を作ることに成功している。
実際、イースト・ワークスは、その当初からGrandiscやBAJといったミュージシャン主導のサブ・レーベルを持ち、これまでに多くの、ある意味強 力に偏ったアイテムをリリースすることで、シーンに一石を投じ続けてきた。キップ・ハンラハンというニューヨークの鬼才と提携し、彼のプロデュースする 「アメリカン・クラヴェ」の諸作を日本に紹介するという作業も、ミュージシャンどうしの創造的な結びつきから素晴らしいレコードを作り出すキップの手腕を 出来る限り近い場所に曳き付けたい、という意志から来たものではないかとぼくは思う。そして確かに、キップ・ハンラハンを介して日本へと紹介されたミュー ジシャンたち――特に、ロビー・アミーン、オラシオ・「エルネグロ」・フェルナンデス、ペドロ・マルティネスなどの「ディープ・ルンバ」チーム――の影響 力は、若い世代のミュージシャンを中心に極めて大きく、これから先彼らと日本人ミュージシャンとあいだに更なるコラボレーションが行われていくのは間違い ないことだろう。また、「アメリカン・クラヴェ」からやってきたミュージシャンたちは、演奏現場のレヴェルだけではなく、その意識の状態――ニューヨー ク、東京、そして南米との距離の中から、自身の演奏の想像力を引き出すというエトランゼ的合力のあり方――において、既にコンボピアノの『AGATHA』 などに大きなインスパイアを与えているように思う。
キップ・ハンラハン自身もミュージシャンであるが、二〇〇〇年期に入り、コンボピアノがオーガナイズするSycamore(二〇〇一年)、また東京ザ ヴィヌルバッハを擁する『テクノ、ハウス以降の影響下において発生するジャズを紹介する』BodyElectoricレコード(二〇〇二年)が相次いで始 動、そして冒頭に挙げた芳垣プロデュースのGLAMOROUSレコード(二〇〇四年)の発足と、ミュージシャン主導によってレコードを作るイースト・ワー クス独特の姿勢はさらに加速されてきていると見ていいだろう。こうしたサブ・レーベルの存在は、そのレーベルをオーガナイズするミュージシャンの個性を トータルに発揮することの出来る可能性だけでなく、「他のミュージシャンをプロデュースする」という、多くのミュージシャンにとってはそれまで殆ど経験し たことのないだろう作業に触れる事で、また新たな角度から音楽を見る視点を得ることになるという利点を持っている。
演奏者、音楽創造者、モノを実際に造る人間の立場から一旦離れて、相手の想像力を想像する立場に立つこと。「プロデュース」とは
語源を尋ねると、もともとは演劇における「演出者」という意味らしいが、相手の行いたいこと、そして自分が思っている事を充分に擦り合せながら、ある音楽 を「演出」してゆくこと。レーベルをオーガナイズするということは、自身が「演出」したいミュージシャンを見つけ、彼と一緒に作品を作り、そうやって得た 音楽をまたさらに次の作品、次のミュージシャン、次のコンセプトに結びつけてゆくことで、何重にも折重なった総合的な世界を作り出してゆくことの他ならな い。イースト・ワークス内のサブ・レーベルは、現在の所まだそうした世界を得るまでには至っていないが、藤原大輔の『ジャジック・アノマリー』や東京ザ ヴィヌルバッハの『a8v』というエレクトロニック・ジャズ/フュージョンと、GOTH-TRADのヘヴィー・インダストリアル世界、および津上研太らの アコースティックな世界を結ぶラインを引くことが出来るならば、BodyElectoricは「アメリカン・クラヴェ」の重層性に匹敵する現代的な思想を 提示することが出来るはずだ。ここにはまだ幾つかの作品が欠けている。この隙間はこれから必ず埋められてゆくだろう。
プロデューサーが「演出を行う者」だとするならば、ピアニスト・南博に対するプロデューサー・菊地成孔の振る舞いは、まさしくその言葉のイデアを完全に 充たしたものであり、時に緩慢に、時に急速に進んで行く彼ら二人の共同作業は、「ジャズ」という、二〇世紀の全ての美と悲しみを溶かし込んだ音楽への愛を 支えに、この三年間静かに続けられてきたのだった。『こうして秋に着想され、三年目の秋を迎える10月10日にこのアルバムはドロップする。僕はすっかり 座り慣れたプロデューサーズ・チェアに再び座り直し、このアルバムの最大の目的である、ひとつは何故1950年代のアメリカを精神的な風景に持ったこの音 楽が生まれたのか?ということ、そして、南博を知る総ての、南博を知らぬ総ての人々に、彼の苦渋と葛藤と官能に満ちた、ヴェルヴェットの様に滑らかな精神 性の一端に、出来れば愛撫の手つきに似た繊細さでそっと触れて欲しいと心から願い、アルバム・タイトルはこうして、繊細な物に対して指先でそっと触れる、 ということ。そうした行為を巡るあらゆるヴァリエーションを含意している。』(菊地成孔のアルバム・プロダクション・ノートより)
菊地成孔と南博はコンセプト・ビルディング、具体的な選曲、アレンジ、演奏、録音、ストリングス・セクションのダビングとポスト・プロダクションなどな ど、音楽を得るために必要な具体的な作業を全て共にし、この幸福な関係から三〇分という小さな、(この大きさは「10インチLP」という、初期ブルーノー トの諸作が選んでいたサイズを思い起こさせる。まさしく50年代だ)しかし、圧倒的に美しい『TOUCHES & VELVETS』というアルバムが生まれた。
『デギュスタシオン・ジャズ』でも充分に発揮されている菊地成孔のプロデューサー的資質は、まず相手の一番はっきりとした、一番良質のヴォイスを聴き取 るところから発揮される。これはDCPRGのメンバーのサウンドの対称性(芳垣安洋と藤井信雄のドラムの鳴り方の素晴らしい対比)にも現われているところ だが、菊地は相手の言いたい事、その言い方に耳を澄まし、その後、その中からそれまで彼が(彼女が)思っていなかったような響きを取り出してくる。こうし た繊細な作業を、膨大なミュージシャンを相手に全面展開させて作りあげた作品こそ、全四十一トラックの『デギュスタシオン』であり、一人のミュージシャン だけに集中させて作りあげたのが全五曲の『TOUCHES & VELVETS』である。
彼の作品にリスナーは、一緒に音楽を作る為の、誰かと一緒に作業を行う為の、さまざまな可能性の束を見る。相手を受け入れ、こちらも条件を出し、強要さ れ、譲歩し、考え直し、裏をかく。こういった、人間どうしが深く関わる現場で起きるさまざまな事象を、そのまま音楽に出来ることこそ「ジャズ」というジャ ンルの持つ醍醐味であり、こうした関係性の豊かなヴァリエーションこそ、現在のリスナーが音楽から聴き取るべきものであるようにぼくには思われる。各人ご とにあらためて行われるその果てしない関係構築の作業のなかで、ようやっと譲ったり譲らなかったり出来るようなものではそもそもない、自分ではどうにもし ようが無いものが剥き出しになり、そうしたものを互いに認め合うところからミュージシャンは協力をはじめ、作品が生み出される。ボーダレスかつ個人的な作 品とは、そのような場所から出来上がってくるものなのだ。
ミュージシャンとしての立場、プロデューサーとしての立場、レーベル・オーガナイザーとしての立場。イースト・ワークスに所属しているアーティストたち は、このような複数の立場を往復することによって、音楽を重層的に制作する可能性を持っている。ここにある可能性は無尽蔵であり、まだまだ全く発揮されて はいない、とも言えるだろう。
さて、ぼくは、現在ここで聴くことが出来る作品のあいだに、さらに複数のラインを引くために、この冬一枚のコンピレーション・アルバムをプロデュースす ることになっている。そのアルバムに収録されるアーティストの音楽を、殆どの人はまだ一度も耳にしたことがないだろう。未だライブハウスの暗闇の中に留 まっている彼らの音楽を、アルバムという形に載せて複線化すること。彼らのトラックと、今まで出ているアルバムとのあいだに言語による批評で配線を行い、 そこでバチっと火花を飛ばさせること。プロデューサー/批評家としてのぼくの役割はそうしたものだ。現在、各グループは録音に入っている。全八グループ収 録予定のそのコンピレーション・アルバムに期待していて欲しい。

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イントキシケイト2004?

Gnu   明確な意志に支えられた、異形のグルーヴ・ミュージック

日本人のリズム咀嚼力は、ダンス・ミュージックのデジタル化が完璧にまで進んだ90年代を通過して、どのくらいアップしたのか? ということについて は、夏まゆみ先生による新しいラジオ体操の振り付けを国民全員で踊ってみなければ判断出来ない問題だが、現在の耳でもって、例えば過去に「フリージャズ」 と呼ばれてきたような音楽を聴きなおしてみると、一定のリズム・パターンを刻まないドラミング、という括りでこれまで一緒くたに考えていたものが、そのア プローチの異なりによって大きく二つに分かれて聴こえることに気が付く。一方は、最近ではティム・バーンズやスティーヴン・フリンらに代表される、フレー ズ毎に基本拍をリセットし、サウンドの屈曲率を点滅的に変化させることでリズム・フィールドを拡散させてゆくスタイル。もう一方は、曲中ずっと基礎となる 拍をキープしながら、それを自由に分割・レイヤーすることによって複雑なリズム空間を作り出す、ラシッド・アリからチャド・テイラーまでつながる演奏スタ イルだ。この二つの奏法が寄って立つ世界観をそれぞれ敷衍していくと、片方は、演奏される音と音との間からビートを剥ぎ取り、如何にして各音をそれぞれ自 律した響きとして聴かせるか? と云った現在即興演奏の最前衛において探求されている問題につながり、片方は、世界の中からどのようにビートを切り出し、 あらたなグルーヴを作り出すか? と云うブレイクビーツの実践にまで結びついてゆく。ヨーロッパとアフリカが混交して生まれた20世紀のアメリカ音楽から は、こうした両極端とも云える音楽の可能性を同時に引き出してくることが出来る訳だけれども、ひとつの音楽の中に混在しているこのような質の異なりを切り 分け、それぞれを遥か遠くまで推し進めて、適切なフォームをそこにあらたに発見することは、やはり容易ではないことだ。
大蔵雅彦は、現在最も厳密、複雑かつユーモラスなかたちで、音楽にあらたな曲がり角を曲がらせ続けているミュージシャンである。90年代を通して、大蔵 は自身が行うことの出来る作業と、20世紀音楽の中から聴き取った本質との関係を徐々に磨き続け、ここ数年、アルト・サキソフォン/バス・クラリネット/ ベース・チューブといった管楽器を使った即興演奏と、シーケンサーによって隅々まで完全に作曲されたバンド・アンサンブル作品と云う、対照的な二つの フォームで際立った成果を挙げることに成功している。大蔵のリーダー・バンドGnuの新作、『Suro』は、前述の分類で云うならば後者、きわめてアフリ カ的なリズム・フィーリングの中で、ツイン・ドラムスのアクセントをずらし、サックスとキーボードに対位法を演奏させ、ベースの反復ポイントを変え、ブレ イクを織り込み、グルーヴ・ミュージックの世界を自覚的に拡大しようと試みた傑作である。骨折しかねないほど沢山の仕掛けに充たされた大蔵の作曲は、P- FUNKのようにプログレッシヴで、伊福部昭のようにスケールが大きく、ムーンドッグのようにリリカルだ。そうした楽曲群をキャプテン・ビーフハートと彼 のマジック・バンド並に鉄壁なアンサンブルで聴かせるのだからGnuのライブは堪らないが、幾ら曲が複雑になっても開放的に踊ることが出来るのは、『ワ ン・ネイション・アンダー・ザ・グルーヴ』というポイントを大蔵が決して外しはしないからだろう。一点を揺るぎなく押さえ、そこから複雑な構造を再展開し てゆく。こうした大蔵のダイナミズムを是非ともアルバムとライブで経験してみて欲しいと思う。

Improvised Music From Japan2005

★『futatsu』(w500)

このアルバムの成り立ちについては本誌掲載のインタビューを参照してもらうこととして、早速杉本とラドゥがここで試みていることの分析に入りたい。
ぼくたちは日常、時間を循環するものとして認識している。60分で1時間、24時間で1日、約30日で1カ月、と、さまざまなループによってぼくたちは 予め時間を分節しておき、その中に自分の行為や認識を位置付けてゆく。音楽を聴取する際、ぼくたちは一旦こうした生活の基礎となるリズムからは離れるが、 その代わりとなる循環の単位をいま聴こえているものの中にすかさず探し出そうとする。杉本とラドゥは、このアルバムにおいて、循環を見つけることで時間= 音楽を安全に処理しようとするぼくたちの振る舞いを決定的に拒もうとしている。デジタルに作られた完璧な静寂の中に、杉本とラドゥは「いまここで弾く」、 という意志がはっきりと伝わる明確なトーンで音を配置してゆく。ぼくたちはその音を辿りながら、その前後にある沈黙とともに、何とか曲を構造化するための 繰り返しの単位を見つけようとするが、それはCD一枚の再生が終わるまであらわれることがない。つまり、ぼくたちは70分強の時間を、循環を拒む「いまこ こ」にしかない時間の流れとして経験することになる。この経験から得ることの出来る衝撃はおそろしく大きい。完全即興による一回性の音楽とこれはどのよう に異なるのか、また、微細な反復によって時間をサスペンドするミニマリストたちとどこまで異なっているのか、などさまざまな考えがここから浮かんでくる が、まずはここまで。

掲載誌不明。イントキシケイト?

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就寝のちいさな儀式
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長くにわたって、私は、はやくから床に就いたものだった……。巴里のある娼婦は、このような書き出しからはじまる小説を抱えて、1ヶ月間、高級ホテルのス ウィート・ルームに泊り込み、うとうととベッドの上でそれを読みふける楽しみのために、残りの一年商売に精を出している、という。この話の真偽はわからな いが、これはコルク張りの部屋の中で、強度の喘息に悩みながらその大長編小説を執筆し続けた作者に相応しいエピソードであることは確かだろう。こうした儀 式性とは、ぼくは普段は相当に縁遠い人間であるのだが、ピアニスト・南博の新作『Touches&Velvets (Quiet Dream)』は、深夜ベッドに入り、ようやっとぎりぎり眠ることが出来そうになった瞬間、最後に耳に触れさせておく音楽として、ここ数日間ぼくの寝室に 常備されている。このアルバムを製作したプロデューサー・菊地成孔は常々、「自分の作る作品の機能性に関しては自信がある」と述べており、ぼくは彼とは主 に著述仕事で共同戦線を張っているので、身内褒めみたいになって少し遠慮したいんだが、これは本当に覿面だ。一杯のアンティカ・フォーミュラ、または、極 上の生チョコの一欠片を口にした時に匹敵するような快楽が、部屋の照明を落して、ベッドに横になったまま、一曲目の『B Minor Waltz』(B.Evansの隠れた名曲だ)が再生される度に蘇り、南博のピアノと中島信行のアレンジによるストリングの絡み具合に陶然としているうち に、やがて眠りがやってくる。毎晩繰り返される僅か三〇分の入眠のための儀式は、はじめて2週間ほど経つが、いまのところまだその効果を失っていない。
ジャズという音楽の中には公爵がいて、伯爵がいて、王がいる。これはアメリカが建国当時から王と貴族を持たない初めての国家であったことと裏表の関係に あるのだが、貴族や王族といった階級の特徴は、天皇一家を見ていれば分かると思うが、その極端な儀式性・形式性にある。儀式とは平らに拡がってゆく時間と 空間を分節して、そこに意味を与えてゆく行為であり、生まれること、死ぬこと、食べること、眠ること、こうしたぼくたちの行為のひとつひとつは、それに付 帯させる儀式によって人間的な意味の中に回収されてゆく。特権階級の存在はそうした「意味」を支えるためにあった訳だが、現代に暮らしている人間は、さま ざまな事情により、こうした領域に接触する回路をなかなか開くことが出来ないことが多いようだ。二〇世紀のアメリカに「デューク」や「カウント」があらわ れ、それがみな黒人でジャズ・ミュージシャンであった、という事実は、ぼくたちに、音楽と儀式と社会的階級に関するさまざまな知識を与えてくれる。彼らが 活躍したニュー・ヨークという街は、セントラル・パークで国のために象徴が生活させられている現在のトーキョーよりも、まず間違いなく自分自身で自分の生 活を儀式化・形式化していかなくてはならない場所であっただろう。そうした場所で必要とされる音楽こそがジャズという名前を持った訳だが、菊地成孔と南博 が全面的に手を組んだこの作品、『Touches&Velvets (Quiet Dream)』が、就寝という儀式の重要性を高める為に作られているのは、彼らがこの都市での生活に何が足りないのかを切なくなる程の深さで理解している からに他ならないだろう。是非とも、僅か五曲、三〇分余り(これは1950年代前半、多くのレコード会社が選択した33・3回転/10インチというメディ アのプレイ・タイムだ)の時間の中に織り込まれた、二〇世紀の一〇〇年間が産んだ最高の知恵と技術に耳を傾け、それを所有できる悦びに浸って欲しいと思 う。菊地による膨大なプロダクション・ノートも必読。
菊地成孔率いるデートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンの新作『Stayin’ Alive / FAME / Pan American Beef Stake Art Federation 2』は、DCPRGの新しい目玉である絶妙に不響和なホーン・アレンジによって、ラヴとセックスの為のダンス・クラシックス(『Stayin’ Alive』 )と、ギラギラ光るニュー・ウェーヴ・ディスコ(『FAME』)を苦く取り込んだ、バンドの実力を示す一枚。『PABSAF2』(と略すよ)は、静かで幸 福な夢を見るためには、黒いユーモアに充たされたこの悪夢のような日常を乗り越えなくちゃね、とでもいうかのような、不条理感覚溢れたコラージュ作品であ る。ぼくはまだ聴いていないのだけれど、『デギュスタシオン・ア・ジャズ』のコースを変更し、お値段も少しだけ割安にして、曲間をもうすこしゆったりとっ て食事とワインを楽しめるようにした『デギュスタシオン・ア・ジャズ・オタンティーク/ブリュ』も、こうしたぼくたちの日常に対して、実に象徴的かつ機能 的に働きかけるサウンドになっているのは間違いないだろう。

学研200CDジャズ入門

●歴史コラム

<バンド・スタイルの変遷から見るジャズ史>

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1.ニューオリンズから各地へ

現在「ジャズ」と呼ばれている音楽は、十九世紀の終わりから二〇世紀初頭にかけてのアメリカ・ニューオリンズのストリートで演奏されていたバンドのサウ ンドにその起源が求められる。と、ジャズの歴史について語っているさまざまな本に当たると、大体はそのように書かれてある。スペイン、フランス、イギリス と統治者が代わった後にアメリカ合衆国の領土となったニューオリンズは、アメリカ南部とカリブ海世界の接点として、また、世界中から物資が集められる国際 的な貿易港として、この時期、殆ど「世界の縮図」を思わせる様な混血的な文化を育んでいた。ヨーロッパ各国からの移民、奴隷として連れて来られた黒人、そ してその混血であり、二〇世紀直前まで白人種と同等の権利が認められていたクリオールらが入り混じって、ニューオリンズのストリートでは相当にさまざまな 音楽が奏でられていたようだ。そうした街頭の音楽の中でも独特だったのは、何本かの管楽器で即興的にアンサンブルしながら練り歩く黒人のブラス・バンド で、十九世紀のダンス・ミュージックとして一般的だったワルツやマズルカ、ポルカのリズム、その頃流行しはじめていたラグタイムのビート感、南米のカリプ ソ、世界各国の民謡などが彼らの音楽の中には溶け込んでおり、こうした港町独特の国際性が以後複雑な発展を遂げる「ジャズ」という音楽の心棒となったのは 間違いないことだろう。残念な事に、この時代はまだ録音・再生技術が充分に発展していなかったので、ニューオリンズのストリートに響いていたインターナ ショナルな演奏の記録そのものは残されていない。ミュージシャン同士の自発的・即興的なやりとりを中心においたニューオリンズ・スタイル(というよりも、 モダン・ジャズにつながる全てのジャズ・ミュージック)は譜面に書き記すことが不可能であったため、それがどのようなものであったのかを探るには録音に頼 る他ない。だが、このあたりが多少複雑な所なのだが、現在ぼくたちが聴くことの出来る最古の「ジャズ」の録音は、ニューオリンズのストリート・ミュージッ クが衰退を始めた後、第一次大戦への参戦決定でニューオリンズの公娼街が閉鎖され(余談になるが、アメリカの歴史の中で公娼が認められていた街はこの時期 のニューオリンズが唯一、最初で最後である)、シカゴなどに巡業に出るしか無くなったミュージシャンたちによって、アメリカ北部の工業都市へとその音楽が 運ばれた後に吹き込まれたものである、ということだ。シカゴなどの大都市では、ニューオリンズから来たミュージシャンの音楽スタイルは熱狂的な地元の白人 たちの手によってあっという間にコピーされ、禁酒法時代(一九二〇~一九三三)には既にバンド編成も様式化されて、現在「ディキシー」と呼ばれている音楽 のモデルは、この時代に定着したスピーク・イージー用の小規模なダンス・ミュージック・バンド――フロントにクラリネット、コルネット、トロンボーン各一 本づつ、リズム・セクションとしてピアノ、バンジョー(またはギター)、ベース、ドラムス――に拠っている。このサウンドがニューオリンズの街頭で響いて いたものと、例えば『ベスト・オブ・ディキシーランド』(ルイ・アームストロング verveUCCV-4015)での演奏はすでにどの程度ショーアップ されたものなのか、ということについては推測するしかないのだが、いずれにしろ、ジェリー・ロール・モートン、キング・オリヴァー、フレディ・ケパード、 ジョニー・ドッズ、ルイ・アームストロングなど、ニューオリンズから出てさまざまな都市で巡業を続けたミュージシャンたちは、小規模編成によるそのホット な即興性でアメリカ各地に大影響を与え――例えばニューヨークでは、その頃大流行していたストライド・ピアノ奏法と結びついて高度に編曲されたジャズ・ オーケストラを生み出し、カンサスではブルーズの伝統を強く注入され、リフレインを中心としたハードなダンス・ミュージックに発展する、といった具合に ――アメリカのポピュラー音楽を、もはや後戻り不可能なほどはっきりと変えてしまったのだった。

FADER2004?

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BOOKコラム 大谷能生
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“文房具を買いに” 片岡義男 (東京書籍)

片岡義男という作家について、ぼくは1998年に出版された『音楽を聴く』(東京書籍)という本を読むまで、何も知らなかったと言っていい。いや、もち ろんその名前は、80年代の前半に突然(と当時は感じた)書店の棚にずらっと並びはじめた角川文庫の赤い背表紙とともに記憶していたし、『メイン・テー マ』や『ボビーに首ったけ』といった映画の原作、ということで、家においてあった短編集を何冊かは読んでいるはずだ。バイクやサーフィンをモチーフにし た、センテンスの短い会話が多用される恋愛小説、という感想をその時ぼくは持ったはずで、つまり、インドア志向の中学生だった当事の自分とは関係ない世界 を描く作家、ってことで、その後彼の本を手に取る事はなくなった。そして、それから20年近くたち、仕事の関係で偶々読むことになった『音楽を聴く』の面 白さに、ああこの人はこういう作家だったのだな、と蒙を啓かれた訳なのだった。『音楽を聴く』、その続編の『音楽を聴く2』、また、ヴィデオを見てひたす らその画面の推移を描写してゆく『映画を書く』(文藝春秋)など、90年代後半に片岡義男がまとめた幾つかのエッセイ集の特徴は、いま手元にあって見えて いるもの、聴こえているものを、出来るだけ正確に語ってゆこうとする、その律儀なまでの描写のスタイルにある。例えば彼はグレン・ミラーの作った音楽につ いて、『グレン・ミラー ア・メモリアル』というCDを手がかりにしながら、そのCDはどのようにまとめられたのか、グレン・ミラーが活躍した時代はいつ か、そしてそれはどういった時代だったのか、戦後自分が『グレン・ミラー物語』という映画を見たときどうだったのか、といったように、それを成り立たせて いる物事の全領域にむかって漸次的に筆を進めていく。カヴァーする領域が大きければそれだけ積み重ねられる文章は多くなり、音楽を聴いている現在から近過 去、遠過去と時間を何度も往復しながら、データと分析が記されてゆく。当然、簡単な結論など出やしないが、こうした書き方は、現在の時間に過去が重ねられ てゆく「音楽」の体験を描写するのに相応しいものだと思う。
去年の夏に出た『文房具を買いに』は、彼が普段使っている文房具を自分で写真に撮り、その文房具がどういうものであるのか、写真はどのように撮ったの か、について書いた本である。他愛もない、それだけに美しい本で、モールスキンの手帳、ステイプラー、封筒、押しピンなどさまざまな文房具が、それをどの ように見つけて、いまどのように使っており、レンズや陽射しの角度などどういった条件のもとで写真に収めたのか、という文章とともに、見事なカラー写真に 写し取られている。ここでの彼の描写は、書くことに関わる小さなアイテムに徹底して向けられており、掌の中にある自分のお気に入りの物体を定着させる楽し さに彼が熱中している様子が文体そのものから感じられ、微笑ましい。こうした文章が恋愛という物語にどのようなかたちを与えているのか、これからぼくはあ らためて彼の小説を読んでみるつもりだ。

ライナーノーツ、2003?

Denman Maroney / Hans Tammen 『Billabong』

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自分が出したい音を楽器から引き出せるようになるためには、もちろんそれ相当の修練と集中力が必要な訳だけれど、これから生まれる音楽のデティールが予 め描かれてはいない即興演奏の演奏現場においては、それプラス、その場で起きている現象をなるべく多くの方向へと開いてゆくような、まだ溝付けの済んでい ない、十分にゆるめられた耳と思考の働きも必要となってくる。集中と拡散、緊張と弛緩、認識することと意識から取り溢したままでいること……こういった正 反対な作業を同時におこなってゆかなくてはならないのだから、実際これは非常に難しいことで、即興演奏を聴くこと、試みることの魅力のひとつは、このよう な両義的な状態を持続させるなかで、音や行為の意味がかたちを変えていくことにあるように思う。
指先を緊張させながら、鼓膜は脱力させておくこと。こうした作業のための具体的なメソッドは、各ミュージシャンがそれぞれ自分にあったやりかたで作り上 げていることだろう。そのなかでも、非常に有効かつ即効性がある方法のひとつとして、行為と発音とのあいだになんらかの回路を挟みこむ事によって、そこに 時間的/空間的距離を導き入れるというやりかたがある。手の動きによって作られた音が耳にたどり着くまでの距離を引き伸ばす事によって、そのあいだに一旦 リラクゼーションの姿勢を用意することが出来るという訳だけれど、音が辿る回路のありようによっては、そこには演奏者が予想もしていなかったようなサウン ドが介入してくる可能性も存在している。そもそも、レコード盤の上に音を刻み込み、それを再生して聴くという音楽の立ち上げシステム自体が、音と距離を取 るためのひとつの方法であって、ぼくたちは二十世紀の百年間、そうした回路によって何重にも引き伸ばされた音楽のなかで生活してきたともいえるだろう。
このアルバムには、さまざまな回路や道具を介在させることで、現在ひろく流通しているやり方とはすこし異なった形に拡張(あるいは、限定)された楽器を 使ったデュオ演奏が収められている。Denman Maroney が弾くのは「hyperpiano」で、Hans Tammen は「endangered guitar」を演奏する。超ピアノと危機に瀕したギターによるデュオという訳で、この名前付けが極めてシリアスな意図をもっておこなわれているのか、そ れとも単なる思い付きなのかは判断出来かねるが、hyperpianoという字面はキュートだし、endangered という言葉からはPARLAMENTの「BOP GUN(ENDANGERED SPECIES)」を思わず連想してしまい、実際、決してラウダーにならない、乾いたギターから感じる痙攣気味の瀕死感は、ローレンス・マザケイン・コ ナーズにも一脈通じるユーモラスな「弱さ」があるように思う。2~8チャンネルの独立したデバイスにギターの音を通す事でサウンドを作っているらしいのだ が、ディレイなどでフレーズを重ねて空間を埋めたり、エフェクターでトーンの色彩感を変化させたりといったはっきりとわかる効果は殆どおこなわず、拡張よ りもむしろ縮小、削除、衰弱、消尽といった方向から、演奏へむかう想像力を得ているような緊縛感がここにはある。一方、Maroney は、金属棒やアルミ製のサラダボウル、ゴム製のブロックやカセットテープ・ケースなどを使って弦をプリペアドし、時には弓を使用した内部奏法も使って、ピ アノから多彩な音を引き出している。鍵盤を弾きながらピンポン玉や発泡スチロール片をピアノの中に投げ入れ、ハンマーが弦を打つたびにそれらが跳ね上がっ て時にはピアノの外に飛び出す、という見た目にも相当面白い演奏を寶示戸亮二氏がやっているのを見た事があるのだけれど、ピアノという大きな楽器は部分部 分によって響きの形が随分違うだろうから、Maroney の演奏も是非とも目の前でその鳴りを体験してみたいところだ。ピアノのプリペアド&内部奏法はもっとポピュラーになってもいいと思うが、いまいち見る機会 が少ないのはおそらく、演奏で使われるピアノは殆どレンタルの、みんなで使う共有物だから、他人のてまえ思わず遠慮してしまう、という単純なことなのだろ う。ピアニストはもっと勇気を出して、自身の衝動の赴くままに積極的にピアノの中に手を突っ込んで欲しいと思う。
電気的なプロセスとアコースティックなプロセスとの違いはあれ、大胆に変形を加えられた弦楽器=弦打楽器の音色は、このアルバムでは時にはどれがどちら の音か判断がつかないほど複雑に溶け合い(特に、伝統的なサウンドから力を借りながら、最後には調性音楽から随分遠く離れたところまで進んでゆく8曲目は 聴き応えたっぷりだ)、スピーカーの向こう側に広がっている空間に対するこちらのイマジネーションに揺さぶりをかけてくれる。そして、おそらくこれは、演 奏後にこの録音をプレイバックして、「なんだこりゃ、これはどっちの音なんだ」と思って苦笑いをしたであろう、演奏者ふたりの経験と、それほど遠くないと ころにあるものだ。
ぼくたちは即興演奏の録音を聴く時、レコードという窓をとおしてあちらに広がっている空間を想像力で補い、そこにいま自分のなかを流れているようなリニ アな時間を想定して彼らの行為を聴き取っていくが、このアルバムで聴く事が出来るような演奏は、音とその発生源をヴィジュアル的に結びつけて想像すること が極めて難しい。こうした即興演奏は、ぼくたちが録音物を聴くときにおこなっているだろうさまざまな補完のシステムに、ぼくたちの意識を改めて向かわせて くれるだろう。音と音楽、演奏と非演奏を区別する事がむつかしいこうした録音物を聴き、拡張された素材を使った即興演奏のアンサンブルを分析しながら、同 時に、それがこうして自分の部屋に届けられ、まがりなにりも聴かれてしまうという事態が持っている可能性について、集中と脱力とのあいだを反復しながら、 ぼくはしばらく考えることが出来た。いいアルバムだ。