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トランペット(またはコルネット、またはフリューゲル・ホルン)奏者のなかには時々、自分の演奏するべき音楽のフォルムに対して、驚くほど豊かに想像力 を働かせることが出来る人がいて、モダン・ジャズ50年の歴史だけに限ってみても、米国都市音楽からラテン・アメリカへとつながるラインを太く太く引いた ディジー・ガレスピー、ナップサックひとつで世界のどの場所にも現れるドン・チェリー、巨大な祝祭空間を演出し続けたレスター・ボウイ、そして、『マイル ス(ひとりが)何マイルも先を』マイルス・デイヴィス……と、こうやって直ぐに何人かのミュージシャンの名前を挙げることが出来る。それにしても、これは ほんとに、なんとも独特なアンサンブルを作り挙げた人たちばかりが並んだなあ。音楽的にはばらんばらんな彼らに、もし共通する点があるとするならば、それ は、楽器を操る確かな腕前を持ちながら、それに囚われ過ぎることなく(楽器奏者のなかには、残念なことに現在でもしばしば、楽器を演奏する為に必要な技術 的側面からしか物事を判断することが出来ない人たちがいるのだ)、非常に柔軟な耳でもってかなり高い視点からミュージックを見る/聴くことが出来ていたと ころだろう。自分の作った音から一旦離れ、バンドのなかで、聴衆のなかで、さらに言えば世界のなかで、それが如何に響いているか? それを如何に響かせれ ばいいのか? こうしたことを考えながら演奏を続けてきた彼らは、その長いキャリアのなかで、ジャズ・ミュージックにさまざまな複線を付け加え、いまでも そこからたくさんの可能性を引き出すことの出来る豊穣な土地をぼくたちにひらいておいてくれたと思う。
そういった開拓者の系譜に連なるミュージシャンとして、ロブ・マズレクの名前を挙げるのは、けっして大げさなことではないだろう。マズレクを中心とし て、デュオ、トリオ、カルテット、オーケストラ、と編成を変えながら続けられてきた「シカゴ・アンダーグラウンド」プロジェクトは、作曲、編曲、演奏、録 音、編集、という、現在音楽を制作するために踏まれるプロセスのひとつひとつに繊細な注意を払うことで、インストゥルメンタル・ミュージックのあらたなモ デルを提示することに成功している。プレイヤーの演奏能力を音楽の基盤に置いている点では、ロブたちのプロジェクトは確かにジャズの伝統を受け継いではじ められたものだ。が、しかし、彼らは、ステージ上だけで音楽が完結すると考えがちなジャズ・ミュージシャンたちとは異なり、録音や編集といった、いわゆる ポスト・プロダクションまでを含めた音楽の創造に対して、かなり早い時期から敏感に反応することが出来ていたように思われる。これは勿論、ジム・オルーク やジョン・マッケンタイア、それに本作でもレコーディングとミックスを担当しているバンディ・K・ブラウンら、彼らを取り巻くきわめて今日的な、非常に優 れたミュージシャン/エンジニアたちの影響が大きいだろう。「シカゴ・アンダーグラウンド」プロジェクトの特徴は、そのようにして身に付けたノン・リニア なサウンド編集の技術を、また改めてデュオやトリオ、カルテットという極めて具体的な「演奏」のフォーマットに、また、そのための「作曲」のノウハウに、 反映させ続けている点にあると思う。結成からこれまでに発表されたアルバムは、この『SLON』を含めて計8枚。アルバムやフォーマットごとにその音の傾 向は丁寧にデザインされ、一作毎に発展、というよりはエレガントに拡散し続けてきたC.U.の実験は、ラップトップ・コンピューターによって音を処理する システムが演奏の現場でも一般的に受け入れられはじめている現在、ますます本領を発揮してゆくに違いない。
という訳で、シカゴ・アンダーグラウンド・トリオ(以下C.U.T)の新作が届いたよ、という知らせを受けてぼくは、ロブさんたちはいま絶好調なんだろ うな、と勝手に思って喜んでいたのだけれど、そのあと、「今回の作品は『イラク戦争への彼らの思いが反映されたアンチ・ウォー・アルバム』なんだって」、 と聞いて、正直言って鼻白んだ。このアルバムは、『アメリカ帝国主義の包囲網によって自身の生活を奪われた総ての人々』に捧げられている。C.U.Tの3 人は、広い範囲にわたるヨーロッパ・ツアーに出発した2日後、アメリカがイラク侵略を開始したことを知り、そのツアー後、アメリカ軍がイラクに駐留し続け ている最中に、このアルバムを制作した。『その戦争はグループや彼等の音楽に深く影響を与えた』と、プレス・キットには書いてある。
ぼくはここで、戦争と音楽との関係を改めて云々するつもりはない。これまでも音楽でもって戦争に対峙しようとした人たちは沢山いたし、戦争との緊張関係 から想像力を汲み出してきた音楽家もいれば、逆に視野狭窄に陥ってしまった音楽家もいる。言葉でもって音楽になんらかの政治的意図を与えようとすることは 難しくないが、その有効性はしばしば、その音楽の構造とは無関係に推移して行く。また、ある音楽にぼくたちの暮らしている政治的状況のモデルが真に含まれ ているならば、作者が何も言わなくともおそらく、人はそこに生きるために必要な倫理を聴き取ることだろう。とにかく、まずは、デジタル・オーディオとして パッケージングされ、ぼくたちの元に届けられているこの作品に注意深く耳を傾けてみよう。
トラック1。冒頭、ロブ・マズレクのコルネットが旋回させる小さなメロディーに導かれ、チャド・テイラーの手数の多いドラムスがスタート。直ぐにノエ ル・クッパースミスのベースがFペンタトニックのヴァンプで曲の基盤を支え、シンプルなテーマをゆがめるようにしてロブが急速超のソロを取る。アコース ティック・ジャズの王道のようなサウンドだが、1:30秒を過ぎたところで多重録音されたアルコ・ベースが、殆ど電子音響的な陰影を伴ってトリオのサウン ドに介入しはじめる。ドラムスがBPMをキープしたままなのでしばらく気が付かないが、いつのまにか8/8で演奏されていたトリオの演奏に、6/8のベー スとコルネットのリフがスーパー・インポーズされており、さらにその音に3連譜で刻まれる弓弾きのベースが重ねられ、シンプルだが深みのあるポリリズムが 形作られる。ロブのコルネットが再び熱を帯び、8/6拍子の前景化をはっきりさせるようにドラムスはフェイド・アウト。ベースとコルネットのリフレイン、 それに弓弾きのコードの上でコルネットのソロが続き、6:30でこの曲は実に自然にエンディングを迎える。2度、3度と聴きなおして感心しているのだが、 即興演奏でしか生まれ得ない熱気と、緊密な構成、そしてそれをスムースに接続させるトリートメントの巧みさは、C.U.Tがこれまでに行ってきた実験の最 良の結実ではないかと思う。
2曲目の『スロン』は一転して、クッパースミスが制作したというリズミックかつフリーキーな電子音ではじまる。コンピューターのプラグイン・ソフトで加 工されたパーカッションの音のようにも聴こえるこのサウンドのリズム・パターンが安定したところで、ミュートされたコルネットとアルコ・ベースによるテー マが、指弾きのベース・パターンと交互に奏される。これは完全に作曲された作品だろう。電子音、ミュート・コルネット+アルコ・ベース、指弾きのベース、 という4つの異なったサウンドが時間と空間のなかに上手く配置されていることがわかる。3曲目も完全にコンポーズされた曲で、『スロン』とはまた異なった 電子音、細かく重ねられたデジタルの霧の噴射によって雰囲気が作られ、そこに落ち着いたテンポで3人の演奏が重ねられてゆく。4曲目は新伝承派の曲と演 奏、といってもおかしくない完全アコースティックのバビッシュなトラック。5曲目はドラムスがメイン。バス・ドラムで基本拍を提示しながら、チャド・テイ ラーはその上に自由に複数のリズムをレイヤーしてゆく。エルヴィン・ジョーンズがジョン・コルトレーンとのカルテットで探求した手法だが、チャドはこうし たリズムの折り重ねを、ソリストのアイディアを直接的にプッシュするためではなく、例えばマルチ・トラック上に並べたパーツをONOFFすることで意外な リズム空間が発見されことにも似た、複数の演奏スペースの同時的な提示を目的として行っているように思われる。トラック6はコンピューター・トラック+3 人のノー・グルーヴ完全即興。トラック7はフィールド・レコーディング+リズム・ボックス的ビート+逆回転風のシンセ・サウンド、という完全なベッドルー ム・テクノ・ミュージック……。
このアルバムは、データによると、『一日で音楽を録音し、一日でミックスし、一日でテープをカット』して作られたものだという。つまり3日間でここに響 いているサウンドの総てが出来上がったという訳だが、これが本当だとするならば、これらの楽曲のヴァリエーションと完成度は尋常ではない。こうした集中力 の在り方は、ツアーのなかで(毎晩のステージの上で)曲と演奏とのあいだに張り巡らされた複雑な緊張関係を磨き上げていく、ジャズ・ミュージシャンに固有 のものなのではないかとぼくは思う。トリオと名乗りながらも、実質的にはギターのジェフ・パーカーを加えたカルテットでのアンサンブル探求であった C.U.Tの前作『フレイムスロワー』と異なり、『スロン』はきわめてストレートな「トリオ」で作りあげられたサウンドで充たされている。また、これまで C.U.TおよびC.U.Dで多様されてきたチャドのヴィブラフォンも、今回はまったく登場することがない。このアルバムからは、これまで「シカゴ・アン ダーグラウンド」として彼らが広く行ってきた実験の成果を、彼ら自身が、自分たちの為に切実に必要とし、そしてそれを最大限に利用することで作りあげたサ ウンドが聴こえてくる。ある種の止むに止まれぬ怒り、恐怖、悲しみの表明としてこのアルバムが作られているとするならば、そうしたものを作るにあたって彼 らが選んだプロセスが、拡大よりも縮小を志向し、自分がしっかりハンドル出来るもの、十分に習熟しているもの、ちいさく、すばやく、確実に出来るもので仕 上げられているのは興味深いことだ。作曲と即興。アコースティック楽器とエレクトロニクス。フィールド・レコーディングと平均律。リアルタイム・デジタ ル・プロセッシング。ポリリズム。エモーションとイマジネーションの他に、彼等の手の中にはこうしたものがあった。自分の手元を見直したとき、ぼくたちは 一体何を使って、どんなことが出来るだろうか。