夜、masリハの後、新宿から車に乗って岐阜へ。移動する車体に乗って新宿から岐阜に行く事になんの意味があるのか。すなわち、A地点からB地点に移動するのが、どうして愉快なのよウ。ドライブなどというものはすべからく禁止すべきである。車中にて、バイバインの雫を「うっかり地球に落し」でもしたら…などと考えているうちに、あまりのスケールの大きさにいきなり胸一杯の恐怖におそわれてパニックになり、このまま車から無事に降りられたら死んでもいいと思っているうちにぼうっとなって就寝。これが噂のバイバイン不眠療法である。バイバインを落とすものはなるべく大きいものの方が良い。例にあげた惑星よりは、恒星の方がいいだろう。あるいは、逆に微小なものでも良い。微小な音にバイバイン/細かな音が群れている/そんな音。
目が覚めたら大垣に無事到着していて一安心。Otonotaniにはootaniが入っているので(いま気がついたが「not ootani 」で「otonotani」じゃないか! 縁起よくない!)縁起がいいと思う。スキー場のゲレンデ上に広がる快晴の秋空を眺め、いまこのときにも宇宙の果てで増殖しつづけている栗まんじゅうのことを思いながら演奏。照明が格好よかったそうだが、ステージ上では全然分からなかった。バンガローでは合宿(モルト)で得た経験を生かし、炭火起し隊長として1990年のケヴィン・シールズばりに頑張る。しかしここで栗まんじゅうに関する重大な報告が携帯に! 今年は外のベンチで居眠りして風邪をひくこともありませんでした。帰りは岐阜駅まで送ってもらって新幹線で。あっというまの三日間だった。
投稿者: 大谷 能生
10月26日
美学校で講義。東海道線が事故で運休でギリギリ間に合ったけど、岸野さんが遅刻で、前半一人でトーク。これで生徒がいなければ盛大に独り言を言っていることになる。記録メディアのあれこれ、ってことで、和漢朗詠集とか「おくの細道」とか雨月物語とか、リュミエールとかフランス革命とかの話をする。休憩中にお八つとして栗まんじゅうをローソンで買ってきて食べる。
帰宅後、日電音・川崎氏より頂いた「能古見 純米吟醸」を頂く。セントエルモスファイアーなど観ながら。吟醸酒とアンドリュー・マッカーシーが意外に合う。ジェームズ・スペイダーには合わないだろう。エミリオ・エステベスには純米酒の方が合いそうだ。アテは金山寺味噌。実はこれももらい物。早くもらいもので生きる生活がしたい。
10月25日
246でマルコムXレクチャー。WEB効果か前回より人が多かった。「X」サインの帽子をかぶった女子など、かなりいつもと違う客層な気が。「それ、Xジャパン? それとも、スパルタンX?」とか茶化そうと思ったが「いえ、ラリーXです」と返されそうだったのでやめる。ブラック・ムスリムにおける音楽の使われ方について示唆にとんだ質疑応答が出来た。特に、当時は軽快なBGMが話題となり人気を博しており、マルコムは画面右側のレーダーを頼りにマイカーを操作し始めた上、フィールド上の岩を避けたりぶつかってくる敵車を煙幕でスピンさせながら、フィールド内にあるすべてのフラッグを回収する事となった、といったあたり。帰りの電車の中、メールで栗まんじゅうについての新しい情報を得る。
10月24日
今現在、宇宙が存在している事に感謝。やはり数々のブラックホールが栗まんじゅうを掃除機のように吸い続けてくれているのでしょう。しかしそれもいつまで持つのか…金正日が6カ国協議の場で、我々の核よりも空の栗饅頭を恐怖せよ、と演説。万来の拍手。国連にようやく「栗饅頭問題安全保障理事会」、Kuri-Manjyu Security Council発足。人類はようやくその命脈をたもち、22世紀にドラえもんが誕生するのでした。
10月23日
明後日レクチャーの構想まとまらず。とりあえず水風呂に入り、気晴らしに「Go ahead,make my day.」の和訳をあれこれと考える。それにしてももう水風呂の季節じゃない。寒い。寒いついで によく冷やした村上開新堂の好事ぶくろでこれまたよく冷えた悦凱陣(無濾過生亀の尾)を頂く。 妙な取り合わせだが旨い。旨し旨しなどと言っている間にレクチャーのアウトライン固まる。一 息ついて買い出し。酒屋でハイネケンを見かけると向田邦子を思い出す。ブッシュミルズを見て も何も思い出さない。膨張宇宙に関して美紀ちゃんから電話が。
10月22日
1925 ネブラスカのオマハで生まれる
1926 ウィスコンシン州に引っ越し
1930 ミシガン州デトロイトで、W.D.ファード師らが最初のイスラム寺院を建立
1931 小学校入学。父親、事故で死亡。白人至上主義団体による暗殺との噂も、実証されず。
1939 母親、精神病院に収容。万引きその他によりミシガン州の感化院におくられる。その後、メイソン校に入学
1941 第八学年を終えた直後、学業を辞めボストンに移る。さまざまな職業に従事。
1943 ニューヨークに移る。ニュー・ヘイヴン鉄道で働く。その後、ハーレムのスモールズ・パラダイスなどのウエィターとして働く。徐々にハスラー的生活に入る。
1946 窃盗その他の罪で逮捕。収監。
1948 弟、レジナルドから、ネイション・オブ・イスラムへの初めての勧誘を受ける。ノーフォーク監獄へ移される。獄中で読書と思索の日々
1952 仮釈放。デトロイトの弟の家に寄宿
1953 シカゴに移り、「ネイション・オブ・イスラム」に参加。ボストン第11寺院の導師となる。
1954~ ネイション・オブ・イスラムの導師として活躍
1958 ベティ・Xと結婚
1959 ブラック・ムスリムズについてのドキュメンタリー『憎悪が生んだ憎悪』、TV放送。以後マルコム、ラジオ、TV、大学構内その他のメディアでの討議、演説が増加。
1960 国連会議に参加中のフィデル・カストロと、ハーレムのテレサ・ホテルで会談
1961 ムハンマド師の病状悪化と、彼のスキャンダル事件
1963 ケネディ大統領暗殺へのコメントに関して、教団から90日間の謹慎を求められる
1964 教団から分離。「Afro-American Unity-Muslim Mosque Inc」を組織。メッカ巡礼を目的とした海外旅行。フランクフルトを経由してメッカ到着。その後Egypt, Lebanon, Saudi Arabia, Liberia, Senegal, Nigeria, Ghanaを旅行し、各国の要人と会合。5月にアメリカ帰国。OAAU (Organization of Afro-American Unity)組織を宣言。7月、ふたたびカイロをはじめ、アフリカ諸国、パリ、ロンドンへ遊説旅行。11月帰国。
1965 OAAU活動で多くの演説。二月、ロンドンとパリに行く。二月二十一日、オービュボン・ボールルームで演説後、暗殺者によって銃撃され、数発の銃撃を受けて死亡。
10月15~21日
Unit Gramphone 、Politico3s、mas、それぞれのリハとライブが重なった週。毎回都内まで出て行かなくてはならないので疲弊するが、それ以上に楽しい。あと、sim featuring Kamura Moe のアルバム『common difference』(MIDI)もリリースされました。これ、生楽器(ドラム)はすべてワン・ポイント・ステレオマイクで録音したものをそのまま使っているのですが、むちゃくちゃ音がいいです。その他はほぼ大島宅などでライン取り。録音&MIXやってる人は是非。
リハリハライブライブと都内各所に出るたびに行きたい店を沢山思い出し、おとなしく帰るはずもなく毎夜飲んでいましたので酒中日記風に。
15日:八重洲地下街ハセガワでシングルモルトをいくつか試飲。ほんの100円150円で色々な味が楽しめるのが嬉しい。グラスをいくつか買って帰宅。
16日:19時リハ終了後、中野の炙り谷で手鞠寿司をサカナに出羽桜をぐびぐび。久しぶりに吟醸酒をガンガン飲んだせいか目の前が暗くなる。単に電子的変調をきたしただけなんだ。そうさ。それが男、頭さげ、涙こらえて、縄暖簾、明日は明日のホワイトノイズ、その木枯らしは自分の胸に、しょせん叶わぬ、ああ俺って奴は、駄目のメはメシアンのメ!
17日:打ち合わせ後、神楽坂のイブパレスでサーモン、アボカド、アーティチョークのサラダとローストチキンでエルディンガーのヘーフェをぐびぐび。隣席、妙齢の女性二人組のワインとチーズに関するウンチクにげんなり。チーカマで呑でも飲んでろ。
18日:politico3s本番。終了後、高円寺の大将、モツ煮で燗酒をぐびぐび。きよ香で泡盛、最後はコンビニでチューハイを買い込み南口ロータリーの噴水の脇で飲む。
19日:masリハ。日本橋のフランツィスカーナーでほろほろ鳥をサカナにシュパーテンラガーをぐびぐび。連れがいつまでも「私は本当はビールじゃなくてマオタイ酒とか五加皮酒とか、そういうのが飲みたかったの。本当は。」とぐちぐち言うので切れそうになる。
20日:HEADZイベントをチラ見した後、ちろみ君の案内でゴールデン街をハシゴ。若干記憶無く、翌日財布を見ると覚えの無い名刺がちらほら。仕上げは明け方のメイドリフレクソロジー。なんとも不思議な世界。
21日:UnitGrampnone本番。連続飲酒でさすがにつらいが、こういう時は酒を入れた方が楽になる。渋谷、といえば勿論コレオス。ドライマティーニをぐびぐびと。流石に酔う。センター街の喧噪とはまるで無縁の別天地。来し方、行く末、あれこれと、想い巡らせポートエレン。今夜すべての東急は、銀河鉄道だ。リハとライブと酒の一週間の無事を祝って、乾杯。
10月14日
日暮里から浅草に出て、「うんこビル」こと朝日アートスクエアで「吾妻橋ダンス・クロッシング」を見る。面白かったが、かなりの割合でダンスじゃなかった。終演後マッハで浜松町に移動し、友人の結婚式の二次会へ。東京湾クルージング。非常に楽しい会で、最後はシビットと一緒にフリー・スタイルでお祝いを述べながら帰港。
10月13日
Superdelaxで11月12日にやるライブ告知の名前が「大谷脳生」になっているのを発見。「能夫」あるいは「熊生」というのはよく見かけるが(「熊生」は最初は確か弦人君のイベントに出たとき。その日は最後まで修正されなくて、進行表も「熊生」のままだった。「能」に足、はえてませんから!)これ、はじめて見るなー。多分「のうせい」と打って出したんだろう。マラリア患者みたいだ。おもしろいからそのままにしておく。この日は北千住の東京芸大キャンパスに大友さんたちのライブを見に行く。終了後、居酒屋で盛り上がっていたら、まるで当然のように終電を逃し、初対面の学生の部屋に転がり込んで泊めてもらう。朝起きたら母君が居て(たまたま上京していたそうです)にこやかに紅茶とサンドウィッチを出してくれたので恐縮した。ほうほうの体で退出。朝から日暮里をさまよう。
10月12日
音楽に関しては一番好きなのはモダン・ジャズと発言しているがGLAYなどJ-POPも好きだという、愛のままに我がままに僕は能生の青い朝顔。というわけでグラスドビアンド! 大谷能生です。能生なーりー。そいじゃ今日も行ってみよう、能生ダイアリーフロムベルギーウィズラフ。久しぶりに会った知り合いに開口一番「大谷さん太りましたね」と言われる。ショック。あまりにもショックだったのでうさばらしにコレオスに行ったら小娘がだらだらとカクテルを飲んでいたので少しお説教してから退店。駅前で偶然ちろみ君と会う。ちろみ君は右手の人差し指と親指でわっかを作りクイッとあおる仕草をしてから「どうです」という目をしてこっちを見るので、小指を立てて見せながら「いや、今日、これなんで」と言って逃げる。家に帰って原稿をオルガヌム、およびペイヴメントばりに頑張る。