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エスプレッソ11号 2002年

■ドキュメント「東風」 開店から閉店まで 扉文
大谷能生
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「@月@日 吉祥寺のウチの近所になに屋だか分からない怪しい店が出来た。1年前の春だ。入口には謎のオフジェがドンとあって「東風」の文字。週末にな ると深夜までこうこうと明かりを灯している。出入りしているのが怪しい風体の若い連中ばかりだし、どうもライブをやってるような気配すらある。それに外に 漏れ聞こえてくるのはノイズみたいな音だし・・・。で、あんまり気になるんである日看板をちゃんと見てみた、らどうもCD屋らしい。おまけに時々ライブも やっているらしく、スケジュールには敬愛する永田一直や岸野雄一師匠、湯浅学教授の名前まであるでないの。あれれ、遠慮することはねーか。入ってみると、 レジにはセクシーな女性が座っていて、しかもインタネのエロサイトを見てるし、その奥ではタオルを頭に巻いたケンカの強そうなあんちゃんがソバをずるずる やってる……」(TOKYO ATOM 2001年6月号、「大友良英のJAMJAM日記」より抜粋)
吉祥寺駅から歩いてすぐそこの場所に、セレクト・ショップ「東風」は2000年5月から2001年8月まで店を開いていた。こうやって書いてしまうと、 本当に短期間しか活動していなかったんだなあー、としみじみ思ってしまうが、その期間にこの店で行われたイベントの数量と濃さはほとんど伝説的なものだ。 店長、露骨KITにおこなった閉店前と閉店後のインタビューと、サイトやビラから拾った当時のイベント情報を記載して、飛び抜けて個性的だったこのミニ ショップがどのように始まりどのように終わったのかを記録しておきたい。みなさんもこの記事を参考にして、どんどんお店をはじめてください。
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図書新聞 2002年?

●「ex‐music」/佐々木敦

この本に収められているのは、批評家・佐々木敦が八〇年代の終わりから二〇〇二年までの間に執筆した「音楽」を巡るテキストの数々である。本書を手に 取った読者はまず、五〇〇ページを超えるこの本の厚さに、そして頁をめくる度に次々と登場してくるミュージシャンたちの膨大な数に驚かされることになるだ ろう。実際、佐々木氏が九〇年代におこなってきた批評・紹介・制作活動について、ぼくはある程度の知識を持っていたつもりだったけれども、これほどの数量 になっていようとは、装丁担当の佐々木暁氏がディレクションしたカバー写真、『TOWER RECORDS』(というのかどうか、剥き出しのレコードを数百枚積んで円柱にしたもの。素晴らしい!)の圧倒的な迫力とともに、この本は殆ど物質として の存在感を剥き出しにしてこちらに迫ってくるように感じられる。
ジョン・ゾーン、ハーフ・ジャパニーズ、キャロライナー、JLG、クリスチャン・マークレー、セントリドー、ベック、ジョン・フェイヒイ、ジム・オルー ク、ピタ、カールステン・ニコライ、オヴァル、トータス、竹村延和……こんな羅列ではまだまだ足りない、佐々木氏がこれまでに付き合ってきた音楽家とその 作品の数々、氏の批評だけが唯一アップ・トウ・デートなインフォメーションだったものも少なくないそれらのアイテムの集積に、ぼくは、その多くにリアルタ イムで接してきたリスナーの一人として、一〇数年という時間の厚みを思わず追体験してしまったのだけれども、佐々木氏の批評には本来そういった追憶を喚起 するような要素は殆ど(いや、まったくと言っていいほど)存在せず、また、これだけ沢山の文章が集められているにも関わらず、そこになんらかの価値体系を 形成しようとする動きも見ることが出来ない。決してスタティックな状態に落ち込むことのない、針を落すたびに何度でもあたらしく立ち上がってくるような軽 さ、スピード、即物性。この本の迫力は、細部まで厳密に位置づけられた体系的記述が持つ価値の遠近法の力に由来するのではなく、ひとつひとつの文章に内蔵 されているアクションの異なりが、時に相反し、時に折り重なって生み出されるロールオーヴァーな震動・錯乱状態から生まれて来ているのものだと思う。
普遍からの距離で作品のなかに映りこんでしまっている音や影像を計ることなく、そこにある可能性の異なりを出来るだけばらばらに見つけ出し、それらと個 別に関係を結んでゆくこと。――ここには毎月気が遠くなるほどリリースされ続けるレコードの「量」と「速度」から眼を(そして、耳を)逸らさない人間だけ が得ることの出来る倫理があり、そうした作業から導き出される確かな批評の方法がある。
ぼくたちは現在、それが録音されたものならばすべて、楽音や雑音と言った音楽美学的な区別とは無関係に、それらを聴いて楽しもうとする姿勢を用意するこ とが出来るようになっていると思う。ジャンルや音質、歴史的位置付け、楽曲の良さ、商品的完成度云々といったこれまでの価値基準から一旦離れ、まずはそこ に映しこまれている音像とその編集に対して耳を澄まそうとすること。こうした試みはおそらく、一九九〇年代の半ばからぼくたちの周りで顕在化しはじめてき たものだ。ほんの数年前の出来事なので、その契機を正確に分析することはまだ難しいけれども、大型レコード店の売り場を――インポート、リイシュー、イン ディーズその他のアイテムが見渡す限り並べられている広大なビルのフロアーを彷徨ったことがある人間ならば、時折目の前の棚からぼんやりと顔を上げて、こ れらのレコードたちに共通してあるものは何なのか、そしてそれを同じ耳で聴くために必要な姿勢とはどういったものか、と言ったようなきわめて原理論的な疑 問を思い浮かべたことが必ずあるはずだと思う。そして、こうした問いかけの中から、レコードによるリスニング・システムを成り立たせている録音・再生機器 そのものの性質――例えば、自らを震わせたものを、価値判断を抜きにしてすべて平等に変換し続けるというマイクロフォンとピックアップの基本的な機能―― に出来るだけ近い場所で音を聴こうとするラディカルな姿勢や、わずか数枚のディスクの為にあらたなジャンルを捏造してすぐさまそれを破棄する、というよう な試みも生まれてきているのだ。
レコードで音楽を聴くという経験を、過去に行なわれた生演奏の追体験としてではなく、目の前で現在回転しているディスクと再生機器の運動にまで引き下ろ してから考えてみること。これまでその音盤を取り巻いていた言説に見直しを迫るこうした姿勢は、また一方では、好みという基準に従って自身の趣味性を圧倒 的に強固なものにしてゆく刹那への動きとも切り離すことが出来ない。こうした二律背反を受け止めながら、レコードのなかに収められた一つ一つの切れ目、個 人個人の欲望の発露、そしてそれを成り立たせている知覚の原理へと向けて自身のリスニングを開いてゆくこと。佐々木敦が無数のディスクと付き合いながら実 践してきたのはこのような批評活動であるが、こうしたスタンスは九〇年代の後半にあらわれた一群の音楽家にも共通して認められるものであり、本書が捧げら れているジム・オルークこそ、そうした場所に誰よりも早く入り込んだミュージシャンの代表に他ならない。『ex-music』の後半部分は、録音物の性質 と深く切り結ぶことによってこれまでの音楽の「外」に出ざるを得なくなった、ぼくたちと同時代を生きるミュージシャンが数多く登場してくる。『「ex- music」とは、文字通りの意味で「外=音楽」であり、また「かつて音楽であったもの」ということでもある。exはexceptionalのexでもあ るし、experimentalのexでもあり、あるいはextrasensoryのex、ことによるとexhaustedのexかもしれない。』(あと がきより)
映画批評と音楽批評を同時に書き進めることで自身のキャリアをスタートさせた佐々木氏は、レンズとフィルム、マイクロフォンとレコードという、近代がぼ くたちの「外」に作り出した「眼」と「耳」の働きについて常に考え続けて来た。ぼくたちの知覚と認識と記憶は、ぼくたちの「外」に生まれた「眼=映画」や 「耳=音楽」との関わりの中でどのような変化を被ることになるのか。氏の関心は常にそうした所にあり、また、さらに言うならば、佐々木敦はそうした自身の 外側にあるメディアのひとつとして、フィルムやレコードと同じような姿勢で「ことば」の存在を意識している、ぼくたちの世代では数少ない批評家であるよう に思われる。「ex=そと/ほか」や「最後から二番目」といった言葉によって常にズラされ、振動し続けるように設置された氏の思考の焦点は、これからもさ まざまな現象の「危機的=批評的」ポイントに結ばれ続けてゆくに違いない。
最後に、『ex-music』をさらに「外」へと向かって押し広げるために、この本と問題系が重なる何冊かの書物を紹介しておきたい。先日同氏が上梓し た『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社)では、本書における思考が原理論のレヴェルで展開されており、是非とも併読をお薦めする。フリー・ジャズから はじまり、現在の即興演奏へとつながってゆく「インプロヴィゼーション」を巡る事象は上述の二書における佐々木氏の主要な関心のひとつであるが、清水俊彦 氏の『ジャズ・オルタナティヴ』(青土社)を読むことで、読者はその運動の軌跡を辿ることが出来るだろう。若尾裕氏の『奏でることの力』(春秋社)は、音 と音楽との現在的な関係を巡った美しい本。きわめて実践的な示唆が多数含まれている。『ex-music』とタメるほど固有名詞が登場する『めかくし ジュークボックス』(工作舎)の賑やかな頁をぱらぱらと斜め読みしながら、読書と音楽鑑賞というアクションのあいだを出来るだけ大きく往復してみて欲しい とも思う。

2001年?

innminn 原稿:
タイトル:「男と女のいる厨房」
テーマ:「お花見にもって行きたい一品」

★お料理:「花わさびの三杯酢」

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★材料

・花わさび(または、葉わさび)
・塩、お酒、醤油(白醤油)、米酢(お好みで砂糖)

★レシピ

・花わさびを洗ってざるにあげ、少し多めに塩を振って手で揉む。花と茎の繊維組織がちょっと潰れるくらいの強さで。
・そのまま半日ほど置く。葉わさびの場合は2時間~3時間くらいでOKかな。
・置いているあいだに三杯酢を作る。酢の物のレシピは色々あるみたいだけど、米酢とお酒とお醤油を1・5対1対0.5くらいの割合にして火に掛け、アル コールを飛ばして作ったものが一番あうのではないでしょうか。お好みで砂糖も加えてください。白醤油を使ったほうが山葵の緑が活きて綺麗ですね。
・十分に時間が経ったと判断した後、軽く水洗いしよく水気を切って冷ました三杯酢につける。
・直ぐにでも食べられますが、しばらくつけてからの方がより美味しいかと。冷蔵庫で一週間位は持ちます。

★コメント

寒も明けて、3月が近くなってくると八百屋さんの店頭に葉わさびや花わさびが並んでいることがあります。これはホントこの時期にしか食べられないものなん で、一束200~300円程度で売っているのを見つけたら是非一度ご購入をお勧めします。だいたいこうした香の強い野菜は一度湯掻くことが多い訳ですが、 これは上記のように塩揉みにしてしなっとさせ、酢に漬けて食べた方が断然美味しい! です。丸本淑生先生のご本を参考にしました。
葉わさびより花わさびの方が刺激が強いので、ちょっと長めにざるに上げてきましょう。よく酢を絞って行楽弁当の隅に入れておけば、お酒で舌が疲れた人に大変喜ばれる一品になるのでは、と思います。もちろん白いご飯にもよく合うよ!

インプロヴァイズド・ミュージック・フロム・ジャパン一号

Ami Yoshida interview (2600ward)

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横隔膜から肺、喉頭から口内、そして舌と唇……。人間がコントロール出来る部位のなかでも、もっともやわらかく繊細であるこうした「声」を巡る器官を 使って、吉田アミは、ぼくたちがこれまでに聴いたことがないようなサウンドを作り出してゆく。彼女は呼気が通り抜けるすべてのパイプ・ラインに慎重に耳を 傾け、息の上下に従って身体のなかから極小の軋み、歪み、擦れ、捩れの音を取り出してくる。それは言葉を発すること、自分の意思を記号化して誰かに伝えよ うとする身体活動とは、同じパーツを使いながらも随分と異なった作業であるといえるだろう。誰も気がつかない、自分のなかのわずかな軋みや捩れの音に耳を 澄ますこと。伝達されることを前提とする言語やピッチ・システムの明晰さから離れ、そのような<slight sign(微かな印)>の側に立つことは、記号化がそのまま管理化を意味する社会において最も必要とされるアーティストの振る舞いであるだろう。この秋 cosomosとastro twinという自身のメイン・ユニットで二枚のアルバムを発表し、ソロ作品の準備も進めている吉田アミに自作について語って貰った。
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―――吉田さんは今年リリース・ラッシュですが、これは昔から約束していたものが今年になってまとまってリリースされた、という感じですか?

●「そうですね。UMUのやつ(『. / AMI』・【UMU】)と、あと幾つかのコンピレーションは今年に入ってからの企画だったけど、cosomosとastro twinは前からアルバムを作る予定がありました。F.M.Nからのリリースも厳密に言えば今年決まったものなんですが……。」

―――F.M.Nのもの(『Astoro Twin+Cosmos』・【F.M.N.Sound Factory】)はイギリス・ツアー(2002年3月)時のライブを中心に作られていますが、これは初めからそういう企画だったんですか?

●「いや、決まっていた訳じゃないです。このツアーで録ったライブを出すって約束をしてイギリスに行ったんじゃなくて、たまたまその時の演奏がかなりいい 出来だったからそれを使ったんですね。ライブが終わった後に、演奏よかったなーって思って、で、録音したものを聴いてみたら、案の定繰り返し聴くことに耐 えるサウンドになってたんで、じゃこれでいいか、と四人(中村としまる、Sachiko.M、ユタカワサキ)の意見が一致しましたので。」

―――同時期にErstwhileからもcosmos単体での新作(『Tears』・【Erstwhile】)がリリースされていますが、F.M.Nのアルバムと何か異なっている点があるならばお話いただけますか?

●「異なっている点というか、どちらもライブ・テイクが元になっているんだけど、マスタリングの質がこの二つのアルバムは随分と違いますね。 『Tears』はcosmosの事実上のファースト・アルバムなんで、二人がどういう音で何をやっているのかをなるべく分かりやすいようにしよう、ってこ とで、実際のライブの出音は、その時会場の後ろ側に座って居た人とかは聴き難いくらいの音量だったと思うんだけど、CDではくっきりはっきり、音がイタイ くらいのレベルにまで立ち上げてパッケージングしています。プロデュースをしてくれたジョン・アービーの意向も反映されていて……演奏している時に、たま にサイン波と声が同調して、モワレというか、モジュレーションみたいな響きになることがあるんだけど、そういう感じがよく聴こえる音になってると思う。ラ イブは会場のざわつきやPA環境なんかも含めて一つの演奏だと思うので、そのときそこだけで響くサウンドってことで音が聴き難いことがあってもいいと思う んだけど、録音物はそうはいかない。リスナーの環境まで想定できないからなるべく、出来るだけ細部まではっきりと作るほうが親切だと思う。こういった作業 はもちろん、みんなが気を配っているところだと思うんだけど。」

―――Astoro TwinとCosmosという二つのユニットについて、アミさんが考えているそれぞれの特徴があるとしたら教えてください。

●「どちらもデュオで、しかも演奏している人間の片方が同じ訳だから、はじめのうちはあんまり違ったことが出来なかったんだけど、最近ではどんどんこの二 つのユニットの差が明確になって来て……。いまではそれぞれまったく対極のことをやっていると言ってもいいくらいだと思う。Cosmosは美しい音を集め て、出来るだけ汚い音を出さないようにして演奏するって言う意識がはっきりとあって、私のなかでは、さっちゃん(Sachiko M)との音の絡みも含めて、綺麗な「音」を出そうという目的で声を出しています。音楽的にいいものを作ろうと思っているというか。Astoro Twinはそのまったく逆で、音楽的なものを作ろうとしてやっている訳じゃない。何というか、これまでに殆ど使われてこなかったゴミみたいな音の素材をお 互いにどんどん響かせてみて(声だけじゃなくて、マイクで床を擦ったりとか)、その出した音どうしも全く連続性がなくて、しかも川崎さん(ユタカワサキ) の音や行動ともこっちは完全に無関係だから、共演方法としてもまったく機能していない、ゴミみたいなアンサンブルで……、ある意味一番音楽になりにくい 音、演奏方法を選んでやっているって感じです。でも、そうやって集めた音が物凄く具体的というか、瞬間的にしか存在しないんだけどすごくはっきりとしたサ ウンドとして聴こえる時があったりもするんですけど。あと、よく誤解されるんですが、どちらのユニットでも私の声には一切エフェクトを掛けていません。サ ンプラーにも取り込んでいないし、PAでいじったりもしていない。最近は手元にコンパクト・ミキサーを置いてそれで音量を調節しているけど、声と出音のあ いだにあるのはそういったアンプリファイアーだけです。マイクにエフェクターをつないで音を変化させたり、空間的処理を付け加えたり、って作業をすると、 出音が使うエフェクターなり、それをミックスしてくれる人の音楽性に還元されちゃう訳ですよね。エフェクターに興味がないという訳では必ずしもなくて、出 音が面白ければエフェクターを使ってもいいけど、たまたま生音の方が自分の欲しい音が出るので使っていないだけですが……Cosmosのライブを見た人に よくエフェクトの話とかされて、Cosmosは特に綺麗に「音楽」をやってるからそう思われるのかもしれないけど、全部自分の身体だけで出せる生の音で演 奏しています。」

―――エフェクターは使っていないと。でも、マイクロフォンの顕微鏡効果というか、音を増幅して元の音とは異なった響きとして聴かせる能力からはいろいろな発見があったのではないでしょうか?

●「演奏しはじめた一番初めは本当に、喉とか口内とかの音を耳で聞いてそれで演奏していた訳だけど、マイクやミキサーを自分のものとして使い始めてしばら くすると、マイクで拾えるいままで聴こえなかった音とか、音の細かい表情や特質みたいなものがまた改めて意識できるようになって……、技というか、素材の バリエーションが増えたと思う。こんど作るソロアルバムは、そういった、いま自分が出せる音を素材別に整理した図鑑のようなものになると思います。」

―――ありがとうございました。楽しみにしています。■

STUDIO VOICE 2006?

<Studio Voice> DISKガイド10枚

大谷能生

「まだまだ音楽を作るために参考になる10枚~20枚」という感じで選んでみました。もう10年来聴いているものも、つい最近出会ったものも区別なしに 入っていますが、こうやって選んでみると最近の自分の関心が何処に向いているのかが正直にあらわれていて、めずらしく? 個人的なファンタジーに基いたリストになっています。リズムと音色の配分から偽史を導く作業に向けて。

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●「Place Vendome」/MJQ with The Swingle Singers

ビートルズのアップル・レーベルからもアルバムを出しているMJQ=モダン・ジャズ・カルテットは見た目はクールだけど、多分ジャズ史上一番気が狂って いるグループなんじゃないかと思う。ジョン・ルイスの妄想力は時空を超える。このアルバムはパリでフランス人を中心にした八人組の混成コーラス・グループ と共演したもので、なんというか、いまこんな音楽を演奏してるグループがあったら絶対見に行く。

●「Nouvelle Vague 」/OST

仏つながり。ゴダールの映画「ヌーヴェル・ヴァーグ」から、会話や物音も含めてサウンドの全てをCD二枚にパッケージングしたもの。劇中で使われている 音楽の殆どがECMの音源だから出来たことだろうけど、ミュジーク・コンクレートってどうしてフランス人と相性がいいんでしょうか。食べ物? リュック・ フェラーリの全集とか出ないかな。

●「Step Across The Border」/Fred Frith

サントラと言えばこれは大変良く聴きました。自分史的には九〇年代を代表する一枚。でも収められている演奏自体は七〇~八〇年マナーで、実はこの辺りの ポスト・フリー・インプロヴィゼーション・ミュージックって今まったくアクセス出来なくなっているんじゃないだろうか。欧州の広さと、そこから米国までの 距離がそれぞれどれくらいあんのかってことを改めて思わせるフィールド・ワーク。

●「original music for PINERO」/Kip Hanrahan

このあいだ渋谷の飲んべえ横町でキップ・ハンラハンとおでん食べて焼酎を飲みました。その時クラーヴェの話になって、「日本のクラーヴェはスタジアムに 行けば判る。勿論ベースボールのスタジアムだ。あの応援のリズムこそがジャパニーズ・クラーヴェだ」みたいな話をしました。あとヘンリー・ミラーの「黒い 春」にサインして貰った。「あなたの音楽を聴くと、ブルックリンを描写したこのミラーの自伝的小説を何時も思い出します」。

●「The Thelonious Monk Trio」/Thelonious Monk

変なシンコペーションの付いているモンクの曲/フレージングにアート・ブレイキーのポリリズム・ドラミングが絡んで、もの凄い抽象度が高いのに曲自体は 手のひらサイズっていう、不思議なスケール感の曲が詰まったアルバム。やってる事とか曲の構造とかは細部まではっきりと見えるんだけど、何度聴いてもそれ がどういう仕掛けになってるのか納得出来ない。こういった芸術がもっと欲しいな。

●「Love Cry」/Albert Ayler

アルバート・アイラーのアルバムではこれが一番好きで、それはアイラーのアルトの音色が好きなのと、ミルフォード・グレイヴスのドラミングが素晴らしい から。このアルバムも凝縮された曲が並んでいて、極彩色の軍楽隊+ラテン+ゴスペル+コズミック・ソウルが沸騰している。アイラーのヴォーカルも最高。

●「The Best of Jelly Roll Morton: 1926-1939」/Jelly Roll Morton

ニューオリンズからやってきた巨匠の中でも最もラテン・フレイヴァーに溢れていて、なおかつヨーロッパ・クラシック音楽の教養が感じられるモートン。彼 の曲も複雑ですねー。カリブ海の首都としてのニュー・オルレアン。非常に映像喚起力があるサウンドで、フレッチャー・ヘンダーソン楽団とデューク・エリン トン楽団と聴き比べると色々と考えるところがあります。

●「カメラ=万年筆」/MoonRiders

複雑で凝縮されていて、で、映像喚起力を持っている三分間ポップスということで思い出したのがこのアルバム。何時でも聴けると思って人にあげちゃったか らいま家にないんだけど、凄く聴きたくなってきた。テープであったかな? スピード感があって、パーツに分解出来て、なおかつポップっていうバンドは、い まの日本だったら誰になるんでしょうか?

●「SIiverization2」/V.A.

あるいは、360°の「サーキット・ブラジレイロ」。テクノ、ヒップホップ、ジャズを独自の回路で結んだ、九〇年代後半の日本における最重要盤。ビー ト・ミュージックにおける音像のケース・スタディ。夜の気配が濃厚で、雨が近づいてくる匂いもワンルーム・マンションの窓越しに感じられる。SOUPディ スクはまだまだ健在で実に頼もしい。

●「Quartet for the end of time」/Olivier Messian

音色、旋律、その絡み方など、こういった現代曲のサウンドをモダン・ジャズ的な即興に取り入れる方法ってのはまだまだ探究出来ると思う。ロン・カーター がチェロを弾いてるエリック・ドルフィーの「Out There!」と、メシアンやバルトークを結ぶライン。メシアンのこの曲は、三〇〇年くらい後(または前)に、南米の地方都市にあるカトリック教会で礼拝 用にずっと演奏されているもの、と思うと俄然面白く聴こえてくる。ように思う。

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2001年 サイトBK1

音の鳴る場所で 〔9〕: 2001.03.21 at新宿シアター・プー

平成になってから活発になった新宿駅南口近辺の再開発は、このあたりの風景を昭和時代の街並みとはまったく異なったものにしてしまった、と云うようなこ とを、東京育ちの知人から聞かされることがある。僕は昭和の新宿がどんな街だったかについて実際に記憶していることはなにもないけれど、ライブを見終わっ た後なんかに行きつけの安居酒屋で一杯ひっかけていると、どうしてもそういった懐かしい話がしたくなるという気持ちはよくわかるように思う。植草甚一さん に「僕はもう昔の東京を思い出すことはやめる」というタイトルの、胸を締め付けられるような小さなエッセイがあって、そのどうにもならない諦め具合が最近 ますます読み返すたびにぐっと来るようになってきている。同じ都市に住み着いてもう十年、僕もそろそろ昔のことを思い出したり出さなかったりする年齢に なってきているみたいだ。先月、新宿のちいさなライブもできるバー「シアター・プー」で、懐かしく思い出すことが出来るはずもない「騒乱時代の新宿」を、 しかし、殆ど肌で感じさせてくれるような、ぞくぞくとした時間を過したので、そのことについて書いてみようと思います。
「ホース」という超個性的なバンドのリーダーであり、ギター・インプロヴァイザーとしても内橋和久や植村昌弘といった巧者との共演を重ねている若手要注 目No.1のギタリスト宇波拓氏から、「Bunさんというギタリストを関西から呼ぶので見に来ませんか」というお誘いのメールを貰ったことがそもそもの きっかけでした。「昨年のFBIではじめてBunさんを見て、そのあまりにも真摯な演奏にしばし呆然としました。音数も少なく派手な要素こそありません が、一音一音を全身全霊を込めてものすごい集中力で弾くBunさんは本当に孤高の音楽家であるとしか言いようがありません。巨匠です。こうして東京で Bunさんをご紹介できることを大変嬉しく、いや、誇らしく思います。」という宇波さんのメールにひかれ、また、当人から「最近僕が企画するライブって全 然客が入らなくて」っていう話も聞いていたので、色々な意味で楽しみに見に行ったのですが、宇波さんの予言どおり、開演になってもライブを目当てにきたと 思われるお客さんはだいたい5,6人ほど(苦笑)。いや、それだけなら良くある話でまだいいんですが、シアター・プーの常連だと思われるお客さんがまった くライブのことを知らずに、中央のテーブルで談笑しながらお酒を飲んでいたんですね。しかもそのうちの一人の女の子はもう泥酔していて(笑)、隣の男に抱 きついて時々嬌声をあげています。ライブを見にきた訳ではないお客さんは、だいたいステージから一番離れたカウンターの席の方でお酒を飲むことになるんで すが、なにぶん客が少ないうえ酔ってるもんだから、「なに? ライブぅ?」って感じで、Bunさんがステージに上がってギターを弾き始めようとしている時 でも全然会話を止めようとしません。演奏がドラムスとか入った景気のいいものだったらまだ店の雰囲気もやわらいだのでしょうが、あいにくBunさんのライ ブはたどたどしいと紙一重の、無茶苦茶緊張感のあるギター・ソロで(笑)、ライブ・レコーディングの用意をしていた宇波氏が、「すいませんけれども、静か にお願いできますか」って声をかけて黙らせたそのテーブルからは、演奏が進むにつれむっつりとした不機嫌のオーラと「なんだよこの演奏」などの小声の文句 の声、それに「あたしね~」とか大声で一言言ってまた黙る酔っ払いの女の子の声などが聴こえてきて、すぐ隣に座っていた僕は演奏の素晴らしいテンションと 客席の異様な雰囲気に挟まれて、顔に必死の苦笑を浮かべながら、あのテーブルの連中が怒ってライブを中断させようとしたら割って入れるかなあ、などと考え ていました。Bunさんのギター、セカンド・セットで共演した宇波氏と角田亜人氏の演奏はかけ値なしに素晴らしかったです。例えていえばカン・テーファン とジョン・スペンサー(ブルース・エクスプロージョン)という、まったくつながりのない二人を統合して、しかもそれがキャバレーのミラーボールの下で演奏 しているかのようなBunさんの気配には本気で戦慄を覚えました。
結局演奏行為自体を止めるような動きは起きなかったのですが、演奏中も彼ら(特に泥酔した女の子)は騒ぎ続け、終了後、ステージに近寄って「おまえの演 奏はつまんねえんだよ。人に黙って聴けっていうんだったらそれなりの演奏してみろ」と捨て台詞を決めて帰って行きました。いや、いい演奏でしたよ、と僕が 言うと「し、し、仕方ないよね。も、もっといい演奏しないとね」と、Bunさんはすこしどもりながら答えました。その後も細かいエピソードが色々とあるの ですが、字数もオーバーしていることですし、今回はここまでで終わりにしておきます。

2001年、サイトBK1

音の鳴る場所で 〔12〕: 2001.05.28 at 新宿pit inn & 表参道GALLERY360°

5月になると僕は毎年、特に身体の具合が悪いというわけでもないのに、なんとなく仕事のまとまりが悪くなったり、ちょっとしたことで気持ちが後ろ向きに なったりとか、どうにも調子が出ないまま、一日くさくさして過すことが多くなる。理由は勿論よくわからないけれども、誕生日直前のシーズンは生命力ががく んと落ちる、っていうような話を批評家・仏哲学の丹生谷貴志氏がなにかの本のあとがきに書いており、それを読んでからは星の巡りのせいだからしょうがない ことだ、と考えることにした。いずれにせよ何事も捗らない一日、ひさしぶりに昼から東京に出て、学生の頃みたいに新宿ピットインの誰もいない客席に座って ぼんやりしよう、と思った。
都営新宿線・新宿三丁目の駅についたのは2時30分。ちょうどライブ開始の時刻だけれど、どうせ定刻に始まったりはしないので、僕は余裕を持って入り口 につながる階段を下りていく。同じ地下フロアにあるゲイ・クラブもこの時間ではまだ営業しておらず、おしゃれな格好であわただしく店を出入りしている彼ら の素敵な姿を見ることはできない。チャージを払って店の中に入り、古い知り合いでもあるギタリストの斉藤“社長”良一に挨拶をする。お前、なんでこんなと ころいるんだ/忙しいなか、わざわざ見に来たんですよ/なんだ、偉そうに、と、お互い顔に微苦笑を浮かべながら久しぶりの会話を交わす。今日出演するバン ドはweedbeat。SOUPDISKというレーベルから97年にアルバムを出しているので、もしかしてその名前を聞いたことがある人もいるかもしれな い。リーダー、ミドリトモヒデのアルト・サックス、社長のギター、AmephoneやTUKINOWAのアルバムにも参加している塚本真一のピアノ、リズ ム隊は中野雅士のベース、河本隆弘のドラムス、それにこのあいだも取り上げさせていただいた角田亜人がターンテーブルで加わる、という布陣だ。以前は確か 2ドラムス、2ベースという編成だったと思うのだが、ミドリ氏の話ではそれぞれ事情があって最近ドラムスとベースがひとりづつバンドから離れ、今回がこの 編成になってから初めてのステージだという。
お客は結局、2ステージを通して3人しかいなかった。いや、2人かな? 演奏は、いささかリズムにふくらみを欠くところがあったけれど、社長のギターも 冴えていて、集中力が途切れることなく聴くことが出来た。それぞれ個性の異なるピアノ・ターンテーブル・ギターという3種の音色をどのように配置してゆく かが、今後のパフォーマンスの鍵になるのでは、と思った。
店を出て地上に戻ると、もう6時近くだというのにまだまだ外は明るくて、雨の降る気配もないし、このまま歩いて表参道にあるGALLERY360°まで 行こうと思う。東京の道のことは詳しくないけれども、まあ、ゆっくり歩いても40分くらいで着けるはずだ。新宿からでもはっきりと見える、代々木駅前に出 来た、なんちゃってNYみたいなNTTの高いビルを目印にして、とりあえず明治通りの方向へと歩いてゆく。僕は新宿御苑を挟んでピットインの反対側に位置 しているアート&ライブ・スペース、代々木OFFSITEの横を抜けて(今日は確か秋山徹次、アストロ・ツイン、といったメンバーがこれからライブを行う はずだ)、明治通りを下り、キラー通り(なんで「キラー通り」っていうんだろう?)をついでに通って、南青山に出る。下北沢なんかもそうなんだけれど、こ のあたりの道は横浜のそれとちがって、細い路地のぎりぎりの所まで店が建て込んでいることが多くて、ウィンドウ・ショッピングが好きな人にはいいのだろう けれど、ただ歩きながらぼんやりしたい人にはちょっと息苦しさを感じさせるような気がする。新宿から表参道まで、結局1時間近くかけて僕は歩いた。前売り 番号43番の券を持って、僕はこれからGALLERY360°で小杉武久のライブ・パフォーマンスを見る。

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吉村光弘 アルバム「and so on」ライナー

「and so on」ライナー

このCDに収められているのは、2005年から2006年にかけて吉村光弘が行ったライブ演奏の記録である。だが、この記録から彼の「演奏」の痕跡を聴 き取ることは困難だろう。吉村はステージ上で、会場の響きをマイクで拾い、ミキサーで増幅し、手に持ったヘッドフォンから出力するという作業を行う。この サーキットに取り込まれた会場の響きはやがてポジティヴ・フィードバックを起こし、演奏会場は機材の内部で裏返しにされ、結果、いまあなたが聴いている高 周波の連鎖が生まれるという訳だ。吉村がステージで行うのは、この回路のセッティングと、演奏のスタート&エンド・ポイントの決定のみである。この「演 奏」の最中、基本的に彼は何も行わない。もちろん、両手に持ったヘッドフォンの位置関係が動き、それに従って高周波の音像は若干の変化を見せてゆくが、そ れは彼が選択して行うものではなく、審美的な判断はここからまったく抜け落ちている。実際、吉村がステージで自分の作り出している音を積極的に聴いている のかどうか、ということ自体も僕はあやしいと考えている。演奏しながら、しかし、まったく音の推移と結果には無頓着であること。こうしたある種の(矛盾と も微妙に異なった)ディスタンスネスとでも言えるようなものが、吉村の作品の特徴であると思う。
例えば、この演奏は会場に固有の空間性、その場の音の響きの特徴に強く影響されて行われる。だが、しかし、その特殊性は機材の作り出す回路の中で強力に 蒸留された結果、最終的な音響情報はどの場所でもほぼ似たようなものとなってしまう。どこでいつ演奏しても、得られる結果は結局一緒なのだ。だが、しか し、それはやはり演奏されなければ聴かれることはないし、また、聴衆は実際にそれを吉村の演奏として聴く。ある場所、ある時間の中でしか生まれ得なかっ た、しかし、どこでも在り得ただろうサウンド……そしてこのアルバムは、そんな吉村の演奏からそのサウンド部分だけを複製し、どんな場所、どんな時間にお いても再びそれを経験出来るようにしたものであるのだ。
いつ何処で鳴ってもいい、しかし、その場でしか鳴らされることの無かった音を、いつ何処でも好きな場所で聴くことが出来るものにもう一度導くということ。ヘッドフォンで鳴らされた音を、ヘッドフォンで聴くこと。
こうした幾層もの概念の反転に彼の魅力がある。演奏される音はつねに現象に、そして、それと同じだけ強く意味へと向かう。この存在の引き裂かれに触れ続けること。And so on.

ユリイカ2006年?

コラム

今年は横浜球場でおこなわれる高校野球の試合を見に行くことが出来なくて残念だった。横スタを使うのは開幕戦と、あと準決勝以降からだけなんだけど、だ だっ広い外野席でビール片手に高校生の熱闘を観戦するのは実に楽しい。家から歩いて十分の場所にスタジアムがあるのはなんて贅沢なことなんだろうと引っ越 してきてからいつも思うのだが、最近は忙しくてベイスターズの応援にさえ行けないくらいだ。横スタに一番通っていたのは無論一九九八年の前後であって、し かしもう十年近くも前のことなのか……。ベイファンの作家としては保坂和志さんが有名だが、僕にも優勝当時ベイスターズについて書いた詩のようなものがあ るので、ここでその一部を披露させてもらいたい。これこそ「詩と批評」!の雑誌に書かせて貰う冥利に尽きる。

松坂屋でビールを買って、伊勢佐木町の角を曲がり 外野席のライトが灯る前に 横浜球場へと急ごう
今年はベイスターズが優勝する年/そんな年はこの世紀には何度もない
高架の上の根岸線と併走して 波留敏夫が駆けて行くのが見える
関帝廟で神妙な顔をしているボビー・ローズ 彼の背中には天使の透かしが入っている
炎上するバスに飛び乗る駒田と川村 谷繁の投げたアイスクリームをキャッチする 群集の中で石井琢郎のユニフォームがはためいている
高く掲げられた斎藤隆の腕から 氷川丸ビアガーデンの切符が配られる
佐々木の姿は見えない
でも、この回が終る前に球場に向かえば 関内駅で人を待っている鈴木尚に会えるだろう
今年はベイスターズが優勝する年/そんな年はこの世紀には何度もない

ベイが優勝を決めた日に街頭で受け取った、養老乃滝の「飲み物オール100円」の号外チラシが僕の部屋にはまだ貼ってある。後半戦は何回くらい外野席でタネダンスを踊ることが出来るだろうか。

2月16日

昼に予定していた会合が流れ、終日部屋で蟄居し読書。雨戸も開けなかった。夜になって一人で吉田町のタウザーに飲みに出かけ、ルイス・ブニュエルを気取ってマティーニ(この店ではもっぱらウオッカ・マティーニばかりだが)を注文しながらユニット・グラモフォン用のシノプシスをメモる。なかなかはかどって嬉しい。調子に乗ってキンキンに冷やしたダイキリを二杯。外は今年一番の寒さであった。