掲載誌不明。イントキシケイト?

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就寝のちいさな儀式
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長くにわたって、私は、はやくから床に就いたものだった……。巴里のある娼婦は、このような書き出しからはじまる小説を抱えて、1ヶ月間、高級ホテルのス ウィート・ルームに泊り込み、うとうととベッドの上でそれを読みふける楽しみのために、残りの一年商売に精を出している、という。この話の真偽はわからな いが、これはコルク張りの部屋の中で、強度の喘息に悩みながらその大長編小説を執筆し続けた作者に相応しいエピソードであることは確かだろう。こうした儀 式性とは、ぼくは普段は相当に縁遠い人間であるのだが、ピアニスト・南博の新作『Touches&Velvets (Quiet Dream)』は、深夜ベッドに入り、ようやっとぎりぎり眠ることが出来そうになった瞬間、最後に耳に触れさせておく音楽として、ここ数日間ぼくの寝室に 常備されている。このアルバムを製作したプロデューサー・菊地成孔は常々、「自分の作る作品の機能性に関しては自信がある」と述べており、ぼくは彼とは主 に著述仕事で共同戦線を張っているので、身内褒めみたいになって少し遠慮したいんだが、これは本当に覿面だ。一杯のアンティカ・フォーミュラ、または、極 上の生チョコの一欠片を口にした時に匹敵するような快楽が、部屋の照明を落して、ベッドに横になったまま、一曲目の『B Minor Waltz』(B.Evansの隠れた名曲だ)が再生される度に蘇り、南博のピアノと中島信行のアレンジによるストリングの絡み具合に陶然としているうち に、やがて眠りがやってくる。毎晩繰り返される僅か三〇分の入眠のための儀式は、はじめて2週間ほど経つが、いまのところまだその効果を失っていない。
ジャズという音楽の中には公爵がいて、伯爵がいて、王がいる。これはアメリカが建国当時から王と貴族を持たない初めての国家であったことと裏表の関係に あるのだが、貴族や王族といった階級の特徴は、天皇一家を見ていれば分かると思うが、その極端な儀式性・形式性にある。儀式とは平らに拡がってゆく時間と 空間を分節して、そこに意味を与えてゆく行為であり、生まれること、死ぬこと、食べること、眠ること、こうしたぼくたちの行為のひとつひとつは、それに付 帯させる儀式によって人間的な意味の中に回収されてゆく。特権階級の存在はそうした「意味」を支えるためにあった訳だが、現代に暮らしている人間は、さま ざまな事情により、こうした領域に接触する回路をなかなか開くことが出来ないことが多いようだ。二〇世紀のアメリカに「デューク」や「カウント」があらわ れ、それがみな黒人でジャズ・ミュージシャンであった、という事実は、ぼくたちに、音楽と儀式と社会的階級に関するさまざまな知識を与えてくれる。彼らが 活躍したニュー・ヨークという街は、セントラル・パークで国のために象徴が生活させられている現在のトーキョーよりも、まず間違いなく自分自身で自分の生 活を儀式化・形式化していかなくてはならない場所であっただろう。そうした場所で必要とされる音楽こそがジャズという名前を持った訳だが、菊地成孔と南博 が全面的に手を組んだこの作品、『Touches&Velvets (Quiet Dream)』が、就寝という儀式の重要性を高める為に作られているのは、彼らがこの都市での生活に何が足りないのかを切なくなる程の深さで理解している からに他ならないだろう。是非とも、僅か五曲、三〇分余り(これは1950年代前半、多くのレコード会社が選択した33・3回転/10インチというメディ アのプレイ・タイムだ)の時間の中に織り込まれた、二〇世紀の一〇〇年間が産んだ最高の知恵と技術に耳を傾け、それを所有できる悦びに浸って欲しいと思 う。菊地による膨大なプロダクション・ノートも必読。
菊地成孔率いるデートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンの新作『Stayin’ Alive / FAME / Pan American Beef Stake Art Federation 2』は、DCPRGの新しい目玉である絶妙に不響和なホーン・アレンジによって、ラヴとセックスの為のダンス・クラシックス(『Stayin’ Alive』 )と、ギラギラ光るニュー・ウェーヴ・ディスコ(『FAME』)を苦く取り込んだ、バンドの実力を示す一枚。『PABSAF2』(と略すよ)は、静かで幸 福な夢を見るためには、黒いユーモアに充たされたこの悪夢のような日常を乗り越えなくちゃね、とでもいうかのような、不条理感覚溢れたコラージュ作品であ る。ぼくはまだ聴いていないのだけれど、『デギュスタシオン・ア・ジャズ』のコースを変更し、お値段も少しだけ割安にして、曲間をもうすこしゆったりとっ て食事とワインを楽しめるようにした『デギュスタシオン・ア・ジャズ・オタンティーク/ブリュ』も、こうしたぼくたちの日常に対して、実に象徴的かつ機能 的に働きかけるサウンドになっているのは間違いないだろう。

学研200CDジャズ入門

●歴史コラム

<バンド・スタイルの変遷から見るジャズ史>

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1.ニューオリンズから各地へ

現在「ジャズ」と呼ばれている音楽は、十九世紀の終わりから二〇世紀初頭にかけてのアメリカ・ニューオリンズのストリートで演奏されていたバンドのサウ ンドにその起源が求められる。と、ジャズの歴史について語っているさまざまな本に当たると、大体はそのように書かれてある。スペイン、フランス、イギリス と統治者が代わった後にアメリカ合衆国の領土となったニューオリンズは、アメリカ南部とカリブ海世界の接点として、また、世界中から物資が集められる国際 的な貿易港として、この時期、殆ど「世界の縮図」を思わせる様な混血的な文化を育んでいた。ヨーロッパ各国からの移民、奴隷として連れて来られた黒人、そ してその混血であり、二〇世紀直前まで白人種と同等の権利が認められていたクリオールらが入り混じって、ニューオリンズのストリートでは相当にさまざまな 音楽が奏でられていたようだ。そうした街頭の音楽の中でも独特だったのは、何本かの管楽器で即興的にアンサンブルしながら練り歩く黒人のブラス・バンド で、十九世紀のダンス・ミュージックとして一般的だったワルツやマズルカ、ポルカのリズム、その頃流行しはじめていたラグタイムのビート感、南米のカリプ ソ、世界各国の民謡などが彼らの音楽の中には溶け込んでおり、こうした港町独特の国際性が以後複雑な発展を遂げる「ジャズ」という音楽の心棒となったのは 間違いないことだろう。残念な事に、この時代はまだ録音・再生技術が充分に発展していなかったので、ニューオリンズのストリートに響いていたインターナ ショナルな演奏の記録そのものは残されていない。ミュージシャン同士の自発的・即興的なやりとりを中心においたニューオリンズ・スタイル(というよりも、 モダン・ジャズにつながる全てのジャズ・ミュージック)は譜面に書き記すことが不可能であったため、それがどのようなものであったのかを探るには録音に頼 る他ない。だが、このあたりが多少複雑な所なのだが、現在ぼくたちが聴くことの出来る最古の「ジャズ」の録音は、ニューオリンズのストリート・ミュージッ クが衰退を始めた後、第一次大戦への参戦決定でニューオリンズの公娼街が閉鎖され(余談になるが、アメリカの歴史の中で公娼が認められていた街はこの時期 のニューオリンズが唯一、最初で最後である)、シカゴなどに巡業に出るしか無くなったミュージシャンたちによって、アメリカ北部の工業都市へとその音楽が 運ばれた後に吹き込まれたものである、ということだ。シカゴなどの大都市では、ニューオリンズから来たミュージシャンの音楽スタイルは熱狂的な地元の白人 たちの手によってあっという間にコピーされ、禁酒法時代(一九二〇~一九三三)には既にバンド編成も様式化されて、現在「ディキシー」と呼ばれている音楽 のモデルは、この時代に定着したスピーク・イージー用の小規模なダンス・ミュージック・バンド――フロントにクラリネット、コルネット、トロンボーン各一 本づつ、リズム・セクションとしてピアノ、バンジョー(またはギター)、ベース、ドラムス――に拠っている。このサウンドがニューオリンズの街頭で響いて いたものと、例えば『ベスト・オブ・ディキシーランド』(ルイ・アームストロング verveUCCV-4015)での演奏はすでにどの程度ショーアップ されたものなのか、ということについては推測するしかないのだが、いずれにしろ、ジェリー・ロール・モートン、キング・オリヴァー、フレディ・ケパード、 ジョニー・ドッズ、ルイ・アームストロングなど、ニューオリンズから出てさまざまな都市で巡業を続けたミュージシャンたちは、小規模編成によるそのホット な即興性でアメリカ各地に大影響を与え――例えばニューヨークでは、その頃大流行していたストライド・ピアノ奏法と結びついて高度に編曲されたジャズ・ オーケストラを生み出し、カンサスではブルーズの伝統を強く注入され、リフレインを中心としたハードなダンス・ミュージックに発展する、といった具合に ――アメリカのポピュラー音楽を、もはや後戻り不可能なほどはっきりと変えてしまったのだった。

FADER2004?

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BOOKコラム 大谷能生
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“文房具を買いに” 片岡義男 (東京書籍)

片岡義男という作家について、ぼくは1998年に出版された『音楽を聴く』(東京書籍)という本を読むまで、何も知らなかったと言っていい。いや、もち ろんその名前は、80年代の前半に突然(と当時は感じた)書店の棚にずらっと並びはじめた角川文庫の赤い背表紙とともに記憶していたし、『メイン・テー マ』や『ボビーに首ったけ』といった映画の原作、ということで、家においてあった短編集を何冊かは読んでいるはずだ。バイクやサーフィンをモチーフにし た、センテンスの短い会話が多用される恋愛小説、という感想をその時ぼくは持ったはずで、つまり、インドア志向の中学生だった当事の自分とは関係ない世界 を描く作家、ってことで、その後彼の本を手に取る事はなくなった。そして、それから20年近くたち、仕事の関係で偶々読むことになった『音楽を聴く』の面 白さに、ああこの人はこういう作家だったのだな、と蒙を啓かれた訳なのだった。『音楽を聴く』、その続編の『音楽を聴く2』、また、ヴィデオを見てひたす らその画面の推移を描写してゆく『映画を書く』(文藝春秋)など、90年代後半に片岡義男がまとめた幾つかのエッセイ集の特徴は、いま手元にあって見えて いるもの、聴こえているものを、出来るだけ正確に語ってゆこうとする、その律儀なまでの描写のスタイルにある。例えば彼はグレン・ミラーの作った音楽につ いて、『グレン・ミラー ア・メモリアル』というCDを手がかりにしながら、そのCDはどのようにまとめられたのか、グレン・ミラーが活躍した時代はいつ か、そしてそれはどういった時代だったのか、戦後自分が『グレン・ミラー物語』という映画を見たときどうだったのか、といったように、それを成り立たせて いる物事の全領域にむかって漸次的に筆を進めていく。カヴァーする領域が大きければそれだけ積み重ねられる文章は多くなり、音楽を聴いている現在から近過 去、遠過去と時間を何度も往復しながら、データと分析が記されてゆく。当然、簡単な結論など出やしないが、こうした書き方は、現在の時間に過去が重ねられ てゆく「音楽」の体験を描写するのに相応しいものだと思う。
去年の夏に出た『文房具を買いに』は、彼が普段使っている文房具を自分で写真に撮り、その文房具がどういうものであるのか、写真はどのように撮ったの か、について書いた本である。他愛もない、それだけに美しい本で、モールスキンの手帳、ステイプラー、封筒、押しピンなどさまざまな文房具が、それをどの ように見つけて、いまどのように使っており、レンズや陽射しの角度などどういった条件のもとで写真に収めたのか、という文章とともに、見事なカラー写真に 写し取られている。ここでの彼の描写は、書くことに関わる小さなアイテムに徹底して向けられており、掌の中にある自分のお気に入りの物体を定着させる楽し さに彼が熱中している様子が文体そのものから感じられ、微笑ましい。こうした文章が恋愛という物語にどのようなかたちを与えているのか、これからぼくはあ らためて彼の小説を読んでみるつもりだ。

ライナーノーツ、2003?

Denman Maroney / Hans Tammen 『Billabong』

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自分が出したい音を楽器から引き出せるようになるためには、もちろんそれ相当の修練と集中力が必要な訳だけれど、これから生まれる音楽のデティールが予 め描かれてはいない即興演奏の演奏現場においては、それプラス、その場で起きている現象をなるべく多くの方向へと開いてゆくような、まだ溝付けの済んでい ない、十分にゆるめられた耳と思考の働きも必要となってくる。集中と拡散、緊張と弛緩、認識することと意識から取り溢したままでいること……こういった正 反対な作業を同時におこなってゆかなくてはならないのだから、実際これは非常に難しいことで、即興演奏を聴くこと、試みることの魅力のひとつは、このよう な両義的な状態を持続させるなかで、音や行為の意味がかたちを変えていくことにあるように思う。
指先を緊張させながら、鼓膜は脱力させておくこと。こうした作業のための具体的なメソッドは、各ミュージシャンがそれぞれ自分にあったやりかたで作り上 げていることだろう。そのなかでも、非常に有効かつ即効性がある方法のひとつとして、行為と発音とのあいだになんらかの回路を挟みこむ事によって、そこに 時間的/空間的距離を導き入れるというやりかたがある。手の動きによって作られた音が耳にたどり着くまでの距離を引き伸ばす事によって、そのあいだに一旦 リラクゼーションの姿勢を用意することが出来るという訳だけれど、音が辿る回路のありようによっては、そこには演奏者が予想もしていなかったようなサウン ドが介入してくる可能性も存在している。そもそも、レコード盤の上に音を刻み込み、それを再生して聴くという音楽の立ち上げシステム自体が、音と距離を取 るためのひとつの方法であって、ぼくたちは二十世紀の百年間、そうした回路によって何重にも引き伸ばされた音楽のなかで生活してきたともいえるだろう。
このアルバムには、さまざまな回路や道具を介在させることで、現在ひろく流通しているやり方とはすこし異なった形に拡張(あるいは、限定)された楽器を 使ったデュオ演奏が収められている。Denman Maroney が弾くのは「hyperpiano」で、Hans Tammen は「endangered guitar」を演奏する。超ピアノと危機に瀕したギターによるデュオという訳で、この名前付けが極めてシリアスな意図をもっておこなわれているのか、そ れとも単なる思い付きなのかは判断出来かねるが、hyperpianoという字面はキュートだし、endangered という言葉からはPARLAMENTの「BOP GUN(ENDANGERED SPECIES)」を思わず連想してしまい、実際、決してラウダーにならない、乾いたギターから感じる痙攣気味の瀕死感は、ローレンス・マザケイン・コ ナーズにも一脈通じるユーモラスな「弱さ」があるように思う。2~8チャンネルの独立したデバイスにギターの音を通す事でサウンドを作っているらしいのだ が、ディレイなどでフレーズを重ねて空間を埋めたり、エフェクターでトーンの色彩感を変化させたりといったはっきりとわかる効果は殆どおこなわず、拡張よ りもむしろ縮小、削除、衰弱、消尽といった方向から、演奏へむかう想像力を得ているような緊縛感がここにはある。一方、Maroney は、金属棒やアルミ製のサラダボウル、ゴム製のブロックやカセットテープ・ケースなどを使って弦をプリペアドし、時には弓を使用した内部奏法も使って、ピ アノから多彩な音を引き出している。鍵盤を弾きながらピンポン玉や発泡スチロール片をピアノの中に投げ入れ、ハンマーが弦を打つたびにそれらが跳ね上がっ て時にはピアノの外に飛び出す、という見た目にも相当面白い演奏を寶示戸亮二氏がやっているのを見た事があるのだけれど、ピアノという大きな楽器は部分部 分によって響きの形が随分違うだろうから、Maroney の演奏も是非とも目の前でその鳴りを体験してみたいところだ。ピアノのプリペアド&内部奏法はもっとポピュラーになってもいいと思うが、いまいち見る機会 が少ないのはおそらく、演奏で使われるピアノは殆どレンタルの、みんなで使う共有物だから、他人のてまえ思わず遠慮してしまう、という単純なことなのだろ う。ピアニストはもっと勇気を出して、自身の衝動の赴くままに積極的にピアノの中に手を突っ込んで欲しいと思う。
電気的なプロセスとアコースティックなプロセスとの違いはあれ、大胆に変形を加えられた弦楽器=弦打楽器の音色は、このアルバムでは時にはどれがどちら の音か判断がつかないほど複雑に溶け合い(特に、伝統的なサウンドから力を借りながら、最後には調性音楽から随分遠く離れたところまで進んでゆく8曲目は 聴き応えたっぷりだ)、スピーカーの向こう側に広がっている空間に対するこちらのイマジネーションに揺さぶりをかけてくれる。そして、おそらくこれは、演 奏後にこの録音をプレイバックして、「なんだこりゃ、これはどっちの音なんだ」と思って苦笑いをしたであろう、演奏者ふたりの経験と、それほど遠くないと ころにあるものだ。
ぼくたちは即興演奏の録音を聴く時、レコードという窓をとおしてあちらに広がっている空間を想像力で補い、そこにいま自分のなかを流れているようなリニ アな時間を想定して彼らの行為を聴き取っていくが、このアルバムで聴く事が出来るような演奏は、音とその発生源をヴィジュアル的に結びつけて想像すること が極めて難しい。こうした即興演奏は、ぼくたちが録音物を聴くときにおこなっているだろうさまざまな補完のシステムに、ぼくたちの意識を改めて向かわせて くれるだろう。音と音楽、演奏と非演奏を区別する事がむつかしいこうした録音物を聴き、拡張された素材を使った即興演奏のアンサンブルを分析しながら、同 時に、それがこうして自分の部屋に届けられ、まがりなにりも聴かれてしまうという事態が持っている可能性について、集中と脱力とのあいだを反復しながら、 ぼくはしばらく考えることが出来た。いいアルバムだ。

イントキシケイト、2004?

藤原大輔 「Jazzic Anomaly」インタビュー

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初リーダー・アルバム「白と黒にある4つの色」をリリースした後、アンダーグラウンド・レジスタンス陣との競演や、濱村昌子(pf)、井野信義 (bass)、つの犬(ds)という強力なメンバーを率いたアコースティック・セッション・シリーズなど、快調に活動を続けてきた藤原大輔が、7月10日 に二枚目のリーダー・アルバムを発表する。前作同様、ボストン時代からの盟友であるミヤモト・タカナ(piano,keys)とトリヤマ・タケアキ (drums,per)を迎えて作られたそのアルバム――「Jazzic Anomaly」の中には、これまで彼が自分の音楽に取り込んできたさまざまな要素――リズム・マシーンによる打ち込みのバック・トラック、モーダルな和 声の感覚、そして勿論、個性的なサクソフォン・サウンドと即興演奏――が、きわめて有機的な形で含まれている。
「今回のアルバムは、ボストン時代にミヤモトとトリヤマとでやっていたことと、それ以後、例えばAupeってユニットで昨年から試みているリズムとグルー ヴの実験や、エレクトロニクスでやってきたことなんかを全部ミックスさせて、いま藤原大輔がやっている音楽の集大成的なものが作りたい、と。そういう意図 でスタートしました。あと、去年アルバムを作った後このメンバーでツアーをして、その時にもっと色々なイメージというか、彼らをこういった舞台の上に乗せ たら凄く似合うだろう、とか、また逆に、僕が用意したシチュエーションでは彼らに思ったようにプレイしてもらえなかったりとか、そういったアイディアとか 反省点を元にして作っていますね。」なるほど、今回のキーワードは「映画的なアルバム」ということだが、藤原がレコーディングの際に用意した各曲のバッ ク・トラックは、その中で共演者が自由に振舞い、即興的にセリフをやりとり出来るような舞台装置の役割を担っているのだ。出演者が一番映えるようなロケー ションをハンティングし、カメラのアングルを決め、脚本を仕上げる……。「そういう文脈で言うならば、今回のアルバムあまりセリフの指定とか演技の指導と かがない、長回しのカメラの前で各人自然に振舞ってもらう、みたいな感じで、プレイヤーが自分でイメージを膨らませてストーリーを作ってゆくようなやりか たで録音しました。彼等のイマジネーションを出来るだけ邪魔しないように心がけて、例えば、いまのシーンは自分が思ってたイメージとは随分違うことになっ てるなあ、と思っても、演奏を止めて説明する、みたいなことはやらないで、その場で起きている事を優先させる。そういう時の方がむしろフレッシュなサウン ドになって、特にアルバム中のrippleって曲はそういったハプニングが上手く作用していると思います。現場で起きていることを最大限に取り込んでい くってやりかたで、かなりジャズ的な方向だと思うんですが、きちんと演出して、がっちりとしたセリフと舞台を用意して、それを演技してもらう。そうした表 現でもミヤモトとトリヤマは素晴らしいんで、そういったものにもチャレンジしてみたいですね。コッポラだって『地獄の黙示録』だけじゃなくて色々な映画を 撮っている訳ですし。」

サイトBK1 2001年?

●bk1 『日本フリージャズ史』 副島輝人インタビュー

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現在から遡ること40年ほどの昔、世界各地で高まっていた政治的運動の波を受けて、日本においてもさまざまな分野で変革を求める動きが激しく燃え上がっ ていた時代があった。寺山修司による『天井桟敷』、唐十郎による『状況劇場』、赤瀬川原平らによるハプニングス、土方巽によるまったくあたらしい舞踏の創 出……。既存の価値観にとらわれない表現が噴出した一九六〇年代、アメリカン・カルチャーの影響をもっとも強く受けながら成立していた「ジャズ」という ジャンルの中からも、自分達の真のオリジナリティを求めて、未知の領域へと果敢に踏み出してゆくミュージシャンたちが現われ始めた。日本におけるフリー ジャズとは、そのような真に個人的な(そしてそれは結局、戦後の日本文化を真に引き受けたものであるはずなのだが)サウンドを探求してきたミュージシャン たちによって作られてきた、ということが、副島輝人氏の『日本フリージャズ史』にははっきりと記されてある。フリージャズ黎明期からつねに演奏の現場に 立ってシーンを育ててきた氏の筆によって活写されているジャズメンたちの活動とその不敵な面魂は、その場に立ち会うことが叶わなかった人間にとっても本当 に魅力的なものだ。現在でも世界中を飛び回りながらジャズの現場で活躍を続けている副島氏に、この本をまとめるまでのお話などをお伺いした。
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……副島先生は1931年のお生まれということですが、フリージャズに傾倒するまでの音楽遍歴を多少お伺いしたく存じます。まずはじめは、いわゆるモダン・ジャズをお聴きになっていらっしゃったんでしょうか。

副島:「終戦の時に14歳だから、僕は戦中派、というか敗戦焼跡派ですね(笑)。戦後すぐはね、ご存知でしょうけれども、アメリカから来る音楽はだいたい みんなジャズって名前で呼ばれてたんですね。実際はジャズ・ソング、甘味の強いジャズ風の小唄が多くて、また一方ではカウント・ベイシーやエリントンも あったから、いま思うとそういうものを全部ひっくるめてジャズって呼んでいたわけです。僕もラジオから流れてくるそういった音楽をよく聴いていました。 で、ところがね、一九五〇年代にはコーヒー文化、喫茶店文化というものがありまして、銀座を中心にして有名な喫茶店が何軒かあって、そこに文人論客たちが 集まって、ある人は新聞を読んでる、ある人は原稿を書いている、ある人は議論を交わしている、そういった状況があった訳ですね。僕もその頃は映画の批評を やろうと思っていたから、映画会社でプログラム・パンフレットを作って映画館に配る仕事をする傍らそういった喫茶店に出入りしていたんですよ。そういった 喫茶店の中に、ジャズのLPを専門にかけるいわゆるジャズ喫茶もありまして、そうしてある時、有楽町の駅前に出来たあたらしい小さなジャズ喫茶店に入りま したら、異様な音楽が耳にガーンと入ってきた。これはなんだ? って。とにかく、ラジオでいままで聴いていたような音楽とは全然違うんです。それがモダ ン・ジャズとの出会いでした。なにがその時かかっていたのかは今でも覚えていまして、ジェリー・マリガンとチェット・ベイカーのカルテットなんです (笑)。それを聴いて、その次にバド・パウエルがかかって、その次がホレス・シルバーだったんですが、その時はもう何がなんだか分からないくらい興奮し て、混乱してしまったんですが、分からないなりにこの名前は覚えておかなくちゃって必死に覚えたんでしょうね。これはただ事ではないって、そのあと帰って 同僚なんかに、おまえ凄い音楽があるぞって吹いて、そのあとは毎日入り浸りですよ(笑)。その頃はLPは高くて、ラジオではかからないようなそういった当 時の大前衛はジャズ喫茶に行かなければ聴くことが出来なかった。アメリカからの文化的窓口、蛇口の役割をジャズ喫茶が果たしていたわけです。そうした点が いまとは随分と異なっているところですが、そうやってどんどん聴いていくうちにジャズの魅力がどんどん分かってきて……そのまま自然に前衛を追いかけて いって、フリージャズにのめりこんでいった、という感じですね。」

……なるほど。そうしてその後、60年代の後半からフリージャズの現場で批評やプロデュースなどの活躍をされる訳ですが、副島先生が関わったそうしたムーブメントをこのように本としてまとめるという企画はいつごろから出ていたのでしょうか。

副島:「二年くらい前からですかね。実はこの本を書く前に、他の出版社さんからの話で『日本のジャズ史』をまとめてみないかと依頼されたことがあったんで す。それでその企画もすこし進めたんですけど、僕はどうしても現場派だから、やっぱり自分で見ている話を書きたいんですよ。戦後直ぐなんてもの凄い面白い 話が一杯あるんですけど、自分で見ていないことはどうしても書きにくくて……。それで、その話は一端取り下げて貰ったんですが、そうしたところ、今度はフ リージャズの話を書いて欲しいという依頼がありまして。まあ、結果的にフリージャズだけでもこんなヴォリュームになってしまいましたので(笑)、分けてよ かったのかもしれませんね。」

……フリージャズという音楽に興味を持ったとしても、いままでは資料がまとめられていなかったり、音源が少なかったりと、なかなか取り掛かるきっかけが掴 めなかった人が多かったのではないかと思います。このように歴史的にきちんとまとめていただいた事で、これからようやっと「日本のフリージャズ」とはなん だったのか、と皆でその特質や成果を考え始めることが出来るようになったのでは、と思います。

副島:「そうですね。あのー、でも、後書きでもちらっと書いたんですが、僕はいま現在起きていることに、いまでも一番関心があるんですね。昔のことよりも いま目の前で起きていることの方がよっぽど面白い。いまこういうことが起きている、だから、明日はこういうことが起こるかもしれない、そういうことに興味 を持ったままずっと来ている訳で、だから最初はこんな本を書いて「フリージャズ」を歴史としてまとめてしまうことにはちょっと抵抗があったんです。ただ ね、最近海外でも日本のこういったシーンに興味を持って研究をはじめている人が出てきて、それはいいことだと勿論思うんだけど、日本にちらっと来て適当に 何人かにインタビューして、それであっち帰って歴史的に間違った論文を書かれたらどうします? って編集者の人に言われたんですね。そりゃ困るよ、って答 えたら、じゃあ副島さんがこのあたりできちんとまとめておかなくてはなりませんね、って痛いところをつかれまして(笑)。それで書くことに決めたんです が、それと、いままでに書かれてこなかった、記事として取り上げられることの比較的少なかったミュージシャンのことを出来るだけきちんと文章にして起きた かったという動機がありました。代表的な音源すら今では手に入らなかったり、そもそもレコードに収まりきらない表現を行って日本のフリー・ジャズを活発に してきたミュージシャンたちもたくさんいる訳で、そうした人たちを過去の霧の彼方に消えさせてしまうわけにはいかないだろう、と。そういったバランス感覚 のなかでこの本はまとめられていますね。」

……この本のなかには、戦後の日本で音楽活動を行うとはどういうことなのか、といった根源的な疑問からジャズへ取り組んだ人たちの姿がとても生き生きと描 かれているように思います。また、フリージャズと一口にいっても、各ミュージシャンがやっていることは随分と異なっている訳で、このようにして歴史の中に 描かれた後にようやっと各人の音楽性を考えることが出来る、そうした研究のきっかけが『日本フリージャズ史』によってようやっと用意されたのではないか、 と思います。

副島:「じゃあ、この本を書いたかいがありましたね。現在ではジャズにおいても、個々人の表現と云うことで、演奏のなかにフリージャズ風のところがあった り、それ以前のモダンなサウンドがあったりとか、一曲のなかでもさまざまな姿を見せる演奏も多いですよね。そういう意味では昔の、きっちりセクトというか 区分があったころのフリージャズというのはもう通過されてしまっていると思う。でも、そういったものがどこに出生を持つのか、ということを考えるのは、そ ういった表現がこれからどこへ行くのか、ということを捕える際に重要になってくることだと思います。この本は歴史の本ですけれど、いま行われている音楽に 幾らかでも反響を与えることができたら素晴らしいことですね。」
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2002年、エスプレッソ11号

■「Guitarist Gathering」巻頭文
大谷能生

「……サリー・アート・スクール・シーン出身の固い絆で結ばれたR&Bファンによって結成されたヤードバーズは、最も有名なイギリスのギター・ヒーロー を3人輩出した。つまり、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、そしてジミー・ペイジである。当時クラプトンは、ヤードバーズがポップへ傾いたことに不 満を持ち、脱退してジョン・メイオール・アンド・ブルースブレーカーズへ移り、リード・ギタリストの役割を定義し直すことに一役買うことになる。彼はま た、当時すでに時代遅れだったギブソンのレスポール・サンバーストとマーシャルの45wの1962年モデル・コンボ・アンプとを組み合わせ、ギブソンのパ ワフルなハムバッキング・ピックアップを使うと、マーシャルがオーヴァードライブ状態になり、クリーミーでサステインの効いたサウンドを生み出すというこ とを証明してみせるといった、ロック・ギターのサウンドに革命をもたらしている。……次はジミ・ヘンドリックスの番である。彼は当初アメリカ製のチトリン 回路を直接用いて、ブルースの伝統を学んでいたが、その後、クラプトンによって築き上げられた、ロック・ギターにとって最も効果的で明確なヴォキャブラ リーを生み出すマーシャル・サウンドを足場とした。ヘンドリックスは、実際、標準仕様のストラトキャスターの全機能をフルに活用して―――ヴィブラートを かけたり、規則正しいリズム・サウンドを得るのにピックアップのスイッチをイン・ビトウィンにセットしたり、あるいは、典型的なディストーションを得るた めに出力を最大限に上げたりしながら―――あの先見の明があると称されていたレオ・フェンダーですら、恐らく想像さえつかなかったサウンドを作り出したの である……。」(『ロック・マシーン・クロニクル』 シンコー・ミュージック出版 p19)

本特集のタイトルである「Guitarist Gathering」という言葉は、2002年の1月17日、西麻布のBULETT’Sにおいて行われた本特集の先行イベント、 「short.homeroom+NO BLEND /Guitarist Gathering 2002 issue」のWebフライヤーにおいても書いたとおり、1992年の冬に(旧)新宿ピットインで行われたライブのタイトルから頂いて来たものである。 10年の歳月を隔てたこの二つのイベントには、ギタリストに焦点を当ててライブが組み立てられていると云った点を除けば、その規模から出演者の顔ぶれにい たるまで全く関連はなく、実際、当日BULETT’Sを訪れた20名ほどの観客のなかで昔日のことを記憶している人間は、おそらく0名であったのではない かと思う。時間の都合でフライヤー入稿に間に合わず、Web上で限定公開されただけであるそのイベントの宣言文をここに再録して、もう一度このイベント/ この特集の基点を確認しておきたいと思う。

「いまから10年前の1992年、移転・改装を目前に控えた(旧)新宿ピットインにおいて、『ギタリスト・ギャザリング』と題されたライブが行われたことがあった。
ガイ・クルゼヴィッツ率いる『ポルカしかないぜ』バンドのギタリストとして来日し、滞在中日本のミュージシャンとも積極的にセッションを繰りひろげてい たジョン・キングを中心として、ドラムスに佐野康夫、ベースに坂出雅海(ヒカシュー)、サックスに(急逝した篠田昌巳の代わりに)野本和浩、という面子が バッキングを勤めたそのステージには、総勢10名のギタリストが出演し、それぞれ互いのサウンドに影響を受けあいながら、同じ空間と時間の中で演奏を行っ た……。(ゴメン! 紙幅の都合で特集の最後のページに続きます。とりあえず、このまま特集のインタビュー記事へどうぞ!)

学研200CDジャズ入門

2.スウィング・ジェネレーション

ニューオリンズからやって来たミュージシャンたちに生気を与えられたアメリカ各地のバンドマンは、肌の色を問わず、みな一斉にそのスタイルを自身の音楽 性の中に取り入れようと試みはじめ、特に「ローリング・二〇’S」の好景気とハーレム・ルネッサンスに沸くニューヨークでは、星の数ほどあったモグリ酒場 とホテルのボールルームを舞台に、さまざまバンドが互いに研究しあい、腕を競い合っていった。高度なクラシック教育を受け、白人ダンス教室のピアノ伴奏や レッスンを請け負っていたジェイムス・P・ジョンソン、ウィリー・ザ・ライオン・スミスといったストライド・ピアニストをボスとして持っていたニューヨー クのミュージシャンたちは、ニューオリンズ的なホットさを保ちながらバンドに和声的繊細さを導入し、巨大なボールルームでも充分に見栄えがする大編成のバ ンドを組織することに取り組んだ。二〇年代を代表するバンド、フレッチャー・ヘンダーソン楽団(彼の活動をまとめたアルバムとして『ケン・バーンズ・ジャ ズ~20世紀のジャズの宝物』 (SME SRCS-9650)を挙げておく)およびデューク・エリントン楽団に務めたレックス・スチュワートは、著書『ジャズ一九三〇年代』(草思社)において、 当時の雰囲気を良く伝える以下ようなエピソードを語っている。『トーマス・”ファッツ”・ウォーラーは、他の第一線級ピアニストたちとはちょっと違う場所 に立っていた。ピアノをひとつのオーケストラとして捉えていたのである。パーティや社交的な集まりでは、ラグやストンプやブルースを他人と変わりなく弾い たが、それは彼の一面にすぎなかった。しばしばカフェのピアノで、考えかんがえ和音をたたき、「いまのがサックス・セクション……そこへ今度はブラスが 入ってくる」などと、聴き惚れている仲間たちに説明したものだった。ウォーラーはいつでも曲のなかに色彩豊かなサウンドを織り込もうと苦心していた。』彼 らは三官のフロントを最大八人編成にまで拡大し(tp二本、tb二本、saxおよびcl四本など)、自由自在にソリストとバックの音色を組み合わせ、バネ の効いたダンス・サウンドの中に当時流行していた全てのポピュラー音楽を溶け込ませて演奏出来るジャズ・オーケストラを作り出した。折からのラジオ・ブー ムも手伝って、彼らのサウンドは全国に大きな影響を与えてゆくことになる。
が、ここで大恐慌が起こる。一九三〇年から一九三四年まで続く大不況時代、人々に好まれたのは「スウィート・スタイル」と呼ばれる甘く緩やかな白人的ポ ピュラー音楽であり、フレッチャー・ヘンダーソンらが工夫したアンサンブルから「ジャズ」的な要素を脱臭したような白人バンドに押されて、デューク・エリ ントンやルイ・アームストロングらはしばらくヨーロッパ巡業へと脱出、また多くの黒人ミュージシャンは廃業の憂き目を見ることになる。そうした国内の状況 がようやっと回復しはじめた一九三五年、今度はベニー・グッドマンによってあらたに熱狂的なスウィング・ミュージック・ブームが沸き起こる。小気味良いリ ズム、美しいクラリネットの響き、良く整えられたアレンジ……。これまでさまざまな音楽に大影響を与えながらも、社会的にはアンダーグラウンドに留まって いた「ジャズ」ミュージックは、ここではじめてアメリカのセンター・フィールドに踊り出る。『不況を克服したアメリカ市民は二才の童子から八十才の老人ま でが、ベニー・グッドマンのスイング・ミュージックに狂喜乱舞したのである。「これこそアメリカの音楽だ!」と彼らは叫んだ。』(油井正一・『ジャズの歴 史物語』)。グッドマンに続いてトミー・ドーシー、グレン・グレイ、アーティ・ショウ、グレン・ミラーらのバンドが続々とチャートにヒット曲を送り込む が、黒人「ジャズ」バンドはこれら白人「スウィング」バンドとは異なったものだと思われており(油井正一曰く、『大衆はスイング・ミュージックとは白人が はじめた新しいアメリカの音楽だと思いこんでいたのである。』)こうした流行とは無縁のままであった。

エスプレッソ11号 2002年

■outdoor information 扉文
大谷能生×臼田勤哉
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大谷:こんにちは。今回の巻頭特集は「outdoor information」 と云うことで、近年、都内各地に現われ始めたあたらしいかたちのライブの現場をチェックしながら、そういった場所がどのような音楽シーンを生み出している か、或いは、そのような場所がどういった欲望から生まれているのか、と、まあ、こういったことをレポートしてみたかった訳ですが、取材に回ってから本が出 るまで一年以上かかってしまって、そのあいだに「東風」なんか潰れちゃったと云う(笑)。各スペースの方々にはご迷惑&ご心配おかけしてどうもすいません でした。
えーと、それで、いわゆるライブ・ハウス以外で行われる音楽の現場って云うと、例えばクラブとかレイブ・パーティーだとか、ダンス方面に特化されたもの がまず思い浮かぶ訳ですが、今回取り上げさせて頂いた所はそういった感じとはちょっと違う。ここに何かポイントを設けて、現在の音楽の状況の一側面を浮き 彫りに出来たら、と思っていたのですが、インタビューをまとめて読んで、臼田君、まずどんな感想を持ちましたか?

臼田:共通しているのは、「ライブハウスでは無い」けれどもライブをやるということなんですよね。なんでそうなったのか、という点についてはそれぞれに 違っている点が面白いのですが。まあ、音楽がその場所にあるものとして、そうなったと。で、ダンスミュージックを扱うスタンスも積極的ではなけれども無視 するわけでもないと。
今回、僕はコラムで野田努の「ブラック・マシーン・ミュージック」というダンスミュージックの本について書いたけれど、あれってディスコ-ヒップホップ 以降のブラックミュージックの一部としてのデトロイト・テクノのタフな生い立ちを丁寧にまとめた本なんですよね。歴史化したというか。まあ、これらが90 年代初頭に日本で流通する際には「未来の音楽」になっていたわけですが。で、outdoorってダンスミュージックというコミュニティミュージック的な側 面は無いし、凄腕のプレーヤーがいるわけでもない。これらを纏め上げるような歴史的な流れというのを僕は今のところ想像できない。そういう意味では今のと ころ「未来の音楽」ですね(笑)。

大谷:いやいや、なにか派手な売り文句があれば意外とすぐに大きな流れになって、10年後には一冊の本が書けるくらいになったりして(笑)。そうね、 「outdoor」って言葉を今回採用した意味を手短に話しておくと、これはぼくだけかもしれないんだけど、CDを買って帰って家でそれを聴く、って云う リスニングの手続きを相対化したかった訳ですね。ともかくまず外に出て、都会のフィールド・アスレチックのそこかしこで(笑)いろいろな形でリリースされ ている音楽の姿に触れてみよう、と。勿論、ライブ最高! CDなんてもう古い、みたいな話では全く無くて、音楽が自分の手元までやってくる回路の在り方を いろいろ探ってみる、って感じでした。そのあたりの突っ込みはちょっと足りなくて、もう少しライブ・レポートなんかも含めて丁寧に比較出来れば良かったん だけど……。

臼田:うーん。いまごろ思い出したけれどそんな話したかもしれませんね。うまく出ているかはよくわからないのだけれど。いずれにしろ、リスナーとプレー ヤー、企画者なんかがすごく接近した位置にあるということは、この数年顕著なことだったと思うのだけれど、そうした傾向のドキュメントとしては楽しめるん じゃないかな?
まあ、こういうのを歴史化するのは後世の人に託すとして(笑)、ここ数年の東京も相当変なことになっていますし、エスプレッソを家で読んで楽しむのもい いですが、そこかしこに出かけてって、そこで生まれつつある音楽に触れてみてください、っていうまとめでいいですか? テキトーですいませんがそれではス タート。

エスプレッソ11号 2002年

■ドキュメント「東風」 開店から閉店まで 扉文
大谷能生
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「@月@日 吉祥寺のウチの近所になに屋だか分からない怪しい店が出来た。1年前の春だ。入口には謎のオフジェがドンとあって「東風」の文字。週末にな ると深夜までこうこうと明かりを灯している。出入りしているのが怪しい風体の若い連中ばかりだし、どうもライブをやってるような気配すらある。それに外に 漏れ聞こえてくるのはノイズみたいな音だし・・・。で、あんまり気になるんである日看板をちゃんと見てみた、らどうもCD屋らしい。おまけに時々ライブも やっているらしく、スケジュールには敬愛する永田一直や岸野雄一師匠、湯浅学教授の名前まであるでないの。あれれ、遠慮することはねーか。入ってみると、 レジにはセクシーな女性が座っていて、しかもインタネのエロサイトを見てるし、その奥ではタオルを頭に巻いたケンカの強そうなあんちゃんがソバをずるずる やってる……」(TOKYO ATOM 2001年6月号、「大友良英のJAMJAM日記」より抜粋)
吉祥寺駅から歩いてすぐそこの場所に、セレクト・ショップ「東風」は2000年5月から2001年8月まで店を開いていた。こうやって書いてしまうと、 本当に短期間しか活動していなかったんだなあー、としみじみ思ってしまうが、その期間にこの店で行われたイベントの数量と濃さはほとんど伝説的なものだ。 店長、露骨KITにおこなった閉店前と閉店後のインタビューと、サイトやビラから拾った当時のイベント情報を記載して、飛び抜けて個性的だったこのミニ ショップがどのように始まりどのように終わったのかを記録しておきたい。みなさんもこの記事を参考にして、どんどんお店をはじめてください。
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